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15世紀ヨーロッパで「高貴な色」と称えられたアフガニスタンのラピスラズリ

 イタリアの画家チェンニーノ・チェンニーニ(1360~1427年)は、ラピスラズリの粉末からつくられる顔料であるウルトラマリンについて「高貴な色、美しく、すべての色の中で最も完璧な色」と1400年頃に書かれた彼の『芸術の書』の中で述べている。18世紀後半までヨーロッパ、アジア、アフリカで使用されるラピスラズリはアフガニスタン北東部のバダフシャーン山脈にあるサリサング渓谷で採られ、その青はアフガニスタンの人々に誇りを与えていた。

アフガニスタンで加工されたラピスラズリの玉 https://www.pinterest.jp/pin/692780355149726091/


 古代エジプトやバビロニアでは宝石や御守りとして使われ、魔法のオーラは邪まな目から人を守ると数千年前から伝えられていた。ヨーロッパには十字軍の時代にもたらされたが、その希少性と採掘や輸送などのコストの高さによって、最も富裕な階層だけが宝飾品などの芸術をつくるために購入することができた。

 この富裕層で特に著名なのは、16世紀に、ラピスラズリによってつくられたボウル、ゴブレット(脚つきグラス)、水差しから象眼細工の絵画や家具まで、高価で、独特なオブジェのコレクションを誇ったメディチ家だった。メディチ家はルネサンス期のフィレンツェを支配し、その黄金時代をつくり、後にトスカーナ大公国の君主を輩出した一族である。

真珠の耳飾りの少女 ヨハネス・フェルメールの絵画 https://www.pinterest.com.mx/pin/855754366674749834/


 挽いて粉末化したラピスラズリは、13世紀から14世紀にかけて、日本で「群青」と形容するようなやや紫がかった濃い青を出すために画家によってますます使用されるようになる。チェンニーノ・チェンニーニは、彼の『芸術の書』の中でこの顔料の作成、調整方法について触れている。16世紀後半になって、ラピスラズリを彫った大きなオブジェがイタリアに現れ始める。その最初の生産拠点はミラノであり、宝石芸術で有名なミセローニ兄弟のガスパロとジロラモは、この素材を巧みに操ることで有名になった。

 トスカーナ大公コジモ1世を継いだフランチェスコ1世・デ・メディチ(在位:1574~1587年)は、1570年頃にミラノから職人を連れてきて、フィレンツェでラピスラズリを彫らせるようになった。フランチェスコ1世は、これらのオブジェクトの生産のためにメディチ家の工房を拡大した。これは、1587年に彼の後を継いだ弟のフェルディナンド1世・デ・メディチ(在位:1587年~1609年)の下でも継承された。1588年、フェルディナンド1世はメディチ家の工房を再編し、制作範囲を拡大した。長年ローマで過ごした彼は、そこで複雑な象眼細工のテーブル表面の趣味や嗜好を深めた。彼はデザイナーや職人のスキルを駆使して、ラピスラズリによって、群青の海や空を描くテーブル表面の作品「リボルノ港の眺め」や「トスカーナの風景」を残した。

 良質のラピスラズリの価格は数百年の間も安定していて、1オンスのラピスラズリの価格は通常1オンスの金のそれと同等であり続けた。シベリアやチリでもラピスラズリの採掘が行われるようになったが、良質なものの価格は非常に高価なままだった。

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 2018年、アジア開発銀行の融資を受けながら「ラピスラズリ回廊」が開通した。これは、地域協力を促進し、アフガニスタンで、トルクメニスタン、アゼルバイジャン、ジョージア、トルコ、さらにヨーロッパに至る交通網を整備し、手続きの簡素化など物流の円滑化を図ったものだ。「ラピスラズリ回廊」という名称は、このルートを通じてアフガニスタンのラピスラズリがヨーロッパに輸出されていたことに因むものだ。現在でも、アフガニスタンの街の店頭などで目にするラピスラズリがアフガニスタンの人々の誇りであることは疑いがなく、「ラピスラズリ回廊」など経済復興の試みで真の誇りを取り戻してほしい。

アイキャッチ画像は「リボルノ港の眺め」
‘‘View of the Port of Livorno’’ (1601-1604), a table top by Cristofano Gaffuri from a design by Jacopo Ligozzi.Credit...
http://boonlogistic.com/home.php?iid=60087142&cid=42

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