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アメリカ―禁酒法の時代と、ナイトクラブが栄えたエジプトの1920年代

 日本ではアメリカで1920年1月16日に禁酒法が施行された日を記念して1月16日が「禁酒の日」になっているものの、日本では禁酒法が成立したことはない。

 アメリカで禁酒法が成立した背景には、1910年代後半、ヨーロッパ大陸からの移民に飲酒する下層・貧困層が多く、アメリカのキリスト教道徳を守ろうとする保守派の動きがあり、また第一次世界大戦を契機に物資節約の傾向が強くあったこと、さらに敵国であったドイツ系市民を経済的に苦しめるためにビール醸造業をつぶそうという動きもあった。しかし、飲酒を完全に断つことは難しく、秘密の酒場が栄えたり、密造酒が高額で売られたりするようになり、そこにアル・カポネのようなギャングが介在するようになった。あたかもイスラムのラマダーン期間中のほうが食事の量が増えるように、禁酒法の時代にはアルコールの消費量がかえって増え、またアメリカを離れて職を探す者たちも現れた。

 エジプトでは第一次世界大戦が終わると、戦争と破壊で荒廃したヨーロッパや、禁酒法のアメリカを離れてカイロに生活の機会を見出そうとする人々が移住してきた。エジプトのダンスホールは、特に東欧経済の崩壊と政治的抑圧から逃れたやってきた人々の活動の舞台となった。1922年12月にツタンカーメンの墓が発見されると、欧米世界にもツタンカーメンブームが訪れた。カイロの住民たちは、世界の耳目がエジプトに注がれ、彼らが世界の中心にいるような錯覚すらあり、カイロのナイトライフはいやが上にも賑やかなものとなった。

 アメリカ人のビリー・ブルックスとジョージ・ダンカンはアメリカ南部に生まれ、1914年にカイロに移住し、1920年代の初頭に「デヴィルズ・ジャズバンド」を結成した。このバンドの性格はコスモポリタン的で、4人のギリシア人ミュージシャンたちを加え、さらにロシア系ユダヤ人のピアニスト、エジプト生まれのポーランド系のトロンボーン奏者、さらにはロシア人女性のドラマーまで加わった。このブルックスとダンカンのバンドのように、1920年代のカイロにはコスモポリタン的なムードもあった。

 エジプトのカリスマ的歌手、20世紀のアラブ世界で最も有名な歌手ウム・クルスーム(1904~1975年)が活躍を始めたのも、この1920年代のカイロだった。クルスームは、東はペルシア湾岸のアラブ諸国や西はモロッコまでのアラブ世界を魅了し続けた。1923年に、冒頭でも述べたように地中海世界のエンターテインメントの中心になっていたカイロに移住し、中東アラブ世界のメディアで注目を集めるようになった。


ウム・クルスーム https://en.wikipedia.org/wiki/Umm_Kulthum

 彼女は、「東のスター」の名声を得て、宗教的、感傷的、また愛国的な歌を歌っていった。1952年のエジプト革命期に、愛国的な感情や敬虔なムスリムであることを吐露していった。エジプトの独立を支持し、ナセル大統領を共感する歌を多く歌い、ナセルと親密な関係を築いた。彼女も歌った“Wallāhi Zamān, Yā Silāḥī” (長い時間であった、私の武器よ)は、1960年から79年までエジプトの国歌だった。戦後のヨーロッパの荒廃、禁酒法のアメリカでは人心がすさんでいたこともあって、1920年代のカイロは中東だけでなく、世界のエンターテインメントや歓楽の中心ともいえるところだった。

Midnight in Cairo: The Divas of Egypt’s Roaring ’20s https://glreview.org/queer-life-in-cairo-in-the-20s/


アイキャッチ画像は映画「アンタッチャブル」
https://www.flixwatch.co/movies/the-untouchables/  


エジプトはビールの発祥地らしい https://dogatch.jp/news/tbs/tbstopics_69622/detail/

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