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メーデーと日本人がウズベキスタンに遺した業績 ー抑留者たちは日本とウズベキスタンの友好の礎を築いた

 5月1日のメーデーは元々ヨーロッパでは、春の到来を祝う日であり、古代の農業の儀式から生まれたとされる。人々は野花、新緑の小枝、花のデザインなどの刺繍をもちより、メイポールの周辺で踊るなどして、実り多き収穫を願った。

 メーデーは労働者の日であり、米国やカナダでは「労働者の日」は「レーバーデー」などが別にあるが、「メーデー」は、1889年に第二インターナショナル(社会主義者の国際組織)によって1886年の米国シカゴのヘイマーケットの労働者の争議によって犠牲者が出たことを記念して定められた。旧ソ連では、「資本主義」との競合を意識するなど特別な祝日になったが、ドイツのナチス政権は1933年に5月1日を「国民労働の日」に定めている。

ウズベキスタン・サマルカンド レギスタン広場


 旧ソ連中央アジアのウズベキスタンでは日本人抑留者たちが国立ナヴォイ劇場の建設に従事した。この建設に従事したのは、永田行夫氏率いる「永田隊」で、タシケント第4収容所での生活を送りながら、朝8時から午後5時までの労働に従事した。労働を休むことができたのは、メーデー、日曜日、正月元日、11月7日のソ連の革命記念日の連休だった。

https://nobuhiko-shima.hatenablog.com/entry/20150618?fbclid=IwAR3CkNIBn1pxPFSzHWdGQpao4J-5sxAIIQqiKp21d-gjFxFzbnYwbHJEwZs  より


 食事は、穀物は籾つきで、羊肉は骨ばかり、また駱駝の肉は硬くて噛みきれないほどで、じゃがいもは半分腐っていたものもあって食事の状態は決してよくなかった。永田隊には航空技術関係者が多く、その技術力は確かで、完成した国立ナヴォイ劇場は、1966年の大地震でタシケント市内の多くの建造物が倒壊したが、ナヴォイ劇場はビクともすることがなく、現地の人から日本人の技術が評価されることになった。

 2001年にナヴォイ劇場を訪問した永田氏は日本のオペラの「夕鶴」を観劇することになり、「自分らの仕事が、たまたま後生に残るこういうものだったというのは幸運だった。もっともっとひどい仕事で苦しんだ人たちがたくさんいるのに」と語っている。

 中央アジアで最大の面積のあるカザフスタンでも日本人抑留者たちが、ウズベキスタンと同様に、カザフスタンのカラガンダ(カザフスタン北東部にある都市)にオペラ劇場「リェットニー・テアトル(夏の劇場)」をつくった。2004年に取り壊される際に市民が反対し、保存を求めたために、現在は市内の公園に一部が残されている。

 日本人抑留者たちの現地での評判はよく、カザフスタンでも勤勉で実直、礼儀正しく、仕事もできるなどの評価を得ていたようだ。日本人元軍医が負傷した少女を手術で救ったり、あるいは日露戦争で日本に抑留されたこがある老人が日本人に親切にされたことを収容所に語りに来たりしたというエピソードもある。昨年、会った東京のカザフスタン大使館員は、「日本の技術をもっと取り入れたい、日本の文化を紹介したい」と語っていた。先人たちが残したカザフスタンの良好な対日感情を引き継ぎ発展させたいものだ。

 「メーデー」を特に強調した旧ソ連での日本の先人たちの努力が、この地域での日本に対する評価を高め、経済や文化を含めた日本との交流の礎を築いたという業績を忘れないようにしたい。

ウズベキスタンを舞台にする映画 ナヴォイ劇場も登場する

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