見出し画像

アーモンドの花 ―平和であるためにつくられ、一度も平和を見ていない土地に平和を ―(マフムード・ダルウィーシュ〔パレスチナの民族詩

― 平和であるためにつくられ、一度も平和を見ていない土地に平和を ―
(マフムード・ダルウィーシュ〔パレスチナの民族詩人〕)アーモンドの花言葉は「希望」なのだそうだ。https://amal-f.jp/rozan/  
 

ダルウィーシュ

 
 日本ではアーモンドの花は今が満開だが、ダルウィーシュは「作家がアーモンドの花を首尾よく描くことができれば、霧が丘から、人びとから立ちこめる。そして人びとは言う。これだ――これが私たちの国歌なのだ・・・」と書いている。アーモンドの花がパレスチナに咲き乱れる情景は、パレスチナ人にとっては日本人が愛でる桜のそれと重なるようだ。 Wafa Aludaini, "Almond trees risk extinction as Israel's occupation of Gaza continues," Middle East Monitor, March 19, 2021

 アーモンドの原産地は中央アジア、あるいは中国だと言われ、そこからペルシャ、アラブ世界、ギリシャ、スペインに伝わっていったとされている。他方、サトウキビはマレー半島を原産地としてインドからペルシャ人たちがユーフラテス川やチグリス川などメソポタミアに持ち込んだ。また、アラブ人が640年にペルシャを征服すると、サトウキビ栽培をシリア、北アフリカ、スペインに紹介した。キリスト教ヨーロッパ世界にサトウキビ栽培が導入されたのは十字軍時代の12世紀だったと見られている。

 マルチパンは砂糖とアーモンドを練り合わせた飴のような食感と独特の風味がある菓子だが、スペインのトレドやシチリア島のパレルモなどの名物として知られ、ドイツ語では「マルツィパン」などと呼ばれる。

マルチパン


 サトウキビ栽培がイベリア半島で始まったのは、アラブの征服から50年ぐらい経過した760年頃だったと見られ、アラブ人たちはやはり先進的な灌漑技術でサトウキビ栽培にも成功し、歴史的記録によれば、1150年にはグラナダだけでも3万ヘクタールのサトウキビ畑と14の製糖工場があった。イベリア半島でアーモンドは最初にギリシャ人植民者によって植えられ、次いでフェニキア人が栽培するようになり、大規模に栽培されるようになったのはやはりアラブの征服以降だった。

 トレドでマルチパンに関する最初の記述が見られるのは700年頃のウマイヤ朝時代(661~750年)ぐらいで、11世紀になると、モサラベ(ムスリム支配下のスペインのキリスト教徒)もムスリムやユダヤ人と一緒にマルチパンを口にするようになり、マルチパンは各宗教の信徒の生活をつなぐ菓子となった。

 アーモンドは、原産地の中央アジアや中国からシルクロードを通じて各地に伝わったが、咳の抑制や肺病に効果があると古代ギリシャの著名な医学者ガレンも述べている。ペルシャの医学者・哲学者のラーズィー(864~933/934年)は、アーモンドには血液の増加と脳機能の強化、体重の維持・増加の効き目があると主張した。さらに、イスラム世界を代表する医学者・哲学者のイブン・スィーナー(980~1037年)もアーモンドは咳の抑制や喀血に効能があるとした。

ガザのアーモンドの花


 アーモンドは、オリーブと同様に、中東の人びとの生活、情感、健康などにとって特別な意味をもつが、かつて豊かに実ったパレスチナ・ガザのアーモンドがイスラエルの地下水の濫用、地下水の汚染や塩化もあって絶滅の危機にあるという。イスラエルは、イベリア半島でムスリムたちとかつてマルチパンを一緒に口にしたように、アーモンド栽培やその収穫の意義をパレスチナ人と共に考え、パレスチナのアーモンドを救ってほしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?