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レーモン・クノー『文体練習』|大事なのは、何を書くかよりも、どう書くか

「文体」という得体のしれないものがある。

三島由紀夫のような文体、池澤夏樹のような文体、村上春樹のような文体など、小説家にはそれぞれ文体がある、とよく言われる。

しかし、その実態はよくわからない。今日は文体をめぐる本を紹介したい。

99通りの文体で表現するフランスの古典

まずは、古典中の古典であるレーモン・クノーの『文体練習』。本書は以下の何気ない日常を99通りの文体で表現した実験的な作品だ。その話とは、

ある日、バスに乗っていると、ある男が乗車していて、他の乗客が押してくる、と腹を立てている。バスを降りた2時間後、その男をまた見かけると、友人から「コートにボタンを付けたほうがいい」と言われていた。

というものだ。なんのオチや盛り上がりもない文章だが、これを99通りに表現してみせた手腕が1940年頃のフランスで注目されたのだ。一部、冒頭だけ抜き出してみたい。

複式記述による文体
「昼の十二時の正午ごろ...バスに乗り込んで乗車した。ぼぼだいたい満員でいっぱいなので、うしろの後部についている外に開かれた開放デッキに立つと・・・」
(読んでいてクラクラするが、つまり「頭痛が痛い」的な文体で表現している。)

予言者の文体
「正午になったら、きみはバスの後部デッキに乗り込むことになるだろう。バスは満員のはずだが、乗客のなかにひとりの間抜けな若者がいる」
(予言者が言ったとしたら、という文体。占い師独特の文体なんかはありそうだ。)

虹の七色の文体
紫色のバスの後部デッキに乗り込んだ...藍色の首をして、帽子には飾り紐を巻いている...ざめた顔つきの紳士に抗議をしはじめた。」
(紫、藍、青と虹色が移ろっていく美しさを添えた文体。色という制約が文章表現を豊かにする。)

「・・・でもなく」の文体
「それは船でもなく、飛行機でもなく、陸上の交通機関であった。朝でもなければ、晩でもなく、昼間のことだった。」
(まわりくどく、否定しながら進んでいく。まるで村上春樹のような文体。)

擬音の文体
「正午の鐘がキンコンカン キンコンカン S系統のバスが ぶるるん ぶるるん」
(フランス語や日本語に多い擬音語。情景が広がっていく。)

「俺はね」文体
「俺はね、わかるよ、それ。変な野郎がさ、しつこく足を踏んづけてきたらさ、そりゃあ怒るよ。決まってら。でもね、ちょっと文句を言ったあとでさ、すぐ尻尾を巻いてね」
(口語体で語りかける感じ。"俺"のキャラが立ち上がる。)

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偏った見方の文体
「いつ果てるとも知れぬおそるべき待機の時間の後に、ようやくバスが通りの角を曲がって姿を見せ、歩道沿いにブレーキをかけた。」
(上質な小説のような文体。それっぽくなる。)

歌の調べのような文体
「バスはゆくゆく バスはゆく S系統の バスはゆく 
通りを抜けて くねくねと ガタゴトバスは 揺れてゆく」
(口ずさみたくなるような文体♪。軽やかなリズム。)

罵倒体
「くそ暑い陽に焼かれて、吐き気がするほど待たされたあと、ゴミ箱のようなおんぼろバスに、やっと乗り込んだ。間抜け面した薄馬鹿どもがひしめいている。」
(これは書いていて楽しくなりそうな性格の悪さ。個人的お気に入り。)

などなど、ここに書いたのは一部だが、レーモン・クノーはこんな風に文体を自由に使いこなす。情報を過不足無く、適切に伝える、ということが馬鹿らしくなるほどに、クノーは自由だ。どんな文体が自分にとって気持ち良いのか、そう考えるだけで、得体も知れなかった文体が一気に身近になる。

レーモン・クノーはさまざまな言葉の実験を行っている。特に「ウリポ」という「潜在的文学工房」(Ouvroir de littérature potentielle」)という実験集団において、新たな文学の可能性を模索した。クノーによる『100兆の詩篇』もそのひとつだ。

もしそばの挑戦

そんな文体練習を現代の日本で実践したのが菊池良さんと神田桂一さんによる『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』である。

こちらはバスでの出来事ではなく、カップ焼きそばのつくり方を、もし文豪が書いたらどうなるか、ということに挑戦した本だ。クノーと同様に一部紹介。

村上春樹
「きみがカップ焼きそばを作ろうとしている事実について、僕は何も興味を持っていないし、何かを言う権利もない。エレベーターの階数表示を眺めるように、ただ見ているだけだ...完璧な湯切りは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
(まったく先に進まない感じが春樹っぽい。最後の締めは完全にイジってる。)

POPEYE
「カップ焼きそばは、日本発の世界的大発明なのだ!
日頃から本誌をチェックしているシティボーイな君たちならわかると思うけどカップ焼きそばについて語らなければいけない時期がそろそろ来たようだ。」
(雑誌POPEYEの快活な文体。書いていて気持ちよい。)

イケダハヤト
「まだカップ焼きそばで消耗してる?
カップ焼きそばってまずお湯を沸騰させて、その間にかやくをいれておいて、お湯が沸騰するのを待つわけじゃないですか。でも、この待ってる時間ってすごく人生において無駄な時間じゃないですか?」
(イケハヤっぽい都心に疲れた若者を煽る文体。)

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西野亮廣(キングコング)
「カップ焼きそば1万個買い占めます
この西野印のカップ焼きそばは、やっぱりひとりでは作れないと思うんですよ。だから、みんなに出資してもらって、手伝ってもらいながら、リターンする。それが一番いい方法だと思うんですよ」
(西野のクラファンをいじってる・・・)

ヴィジュアル系
「INSTANT〜やきそば〜
きみは水道のクリスタルを集めて
やかんのなかにDIVEしていく
身体を駆け巡る 僕のDESIRE(欲望)が
瞳の奥で カップ焼きそばをささやく」
(もはや意味不明だけど、誰かに歌ってほしい)

迷惑メール
「件名:突然ですが、カップ焼きそばを相続しませんか?
はじめまして、橋下恵里菜、33歳の未亡人です。主人が亡くなってから3年、私に残されたのは主人が大好物だった大量のカップ焼きそばでした。」
(こういうメールよくある。新たな文体の発見。)

などなど、その他、星野源や小沢健二のようなミュージシャン、松尾芭蕉や紀貫之のような古典、「週刊文春」や「rockin' on」のような雑誌、スーザン・ソンタグやサミュエル・ベケットのような巨匠の文体で、カップ焼きそばのつくり方が綴られている。もはや何について書かれているかわからないほど、人やメディアが変わることで、カップ焼きそば自体が変容する。

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結局、クノーも「もしそば」も、同じ風景や同じ情報を伝えている。しかしながら、それを”どう書くか”によって、世界は大きく変容する。もしかしたら、書きたいのに書くべきものが見つからない人は、目の前の風景を”どう書くか”を考えてみるといいかもしれない。結局文章は「複式表現」や「・・・でもなく」文体、村上春樹文体によって、何気ない日常がいくらでも変容する。

もし文章を書いて、綴りたくなったならば、何を書くかではなく、物語を生み出すのでもなく、奇跡のような出来事を書くのではなく、どう書くか、どのような表現で書くかに注意、注目すればいい。完璧な文体などというものは存在しない。完璧なカップ焼きそばが存在しないようにね。


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