人の考えを許容するということ

 周りの人達とは少し違った生き方や考えを持っている私は、生きていると日々不思議なことに出会う。
他人と話すことは一見簡単そうに見え、実はその中にいくつもの技術が存在している。例えば、机の配置だ。授業を受けるような配置でまともな話し合いなど、出来るわけがないことは社会人の方なら容易に理解できるだろう。しかし学校の中では、この摩訶不思議な話し合いが当たり前のように考えられている。「めんどくさい」、「やっても意味がない」など理由を挙げればきりはないが、それもすべては一つの考えに基づいているのではないだろうか。「いつもとおなじ」、「無難だから」等恐らく、変化を嫌い普通の人でいるため、一見正解のように見えることを盲目的に信じる以外ないのだろう。
少し話がわき道にそれてしまったが、題と本質的なものは一緒である。なぜ、子供たちは無難であることを美だとするのか。小、中、高と一律の学力制度に揉まれ平均点という“無難“を日々気にし続けることで、いつの間にか学力だけでなく「人間として無難であるべき」という間違った価値観が根付いてる。根付いた価値観というものは、そう簡単に変えることはできず、生活のどこかで垣間見る瞬間があるだろう。
 「相手の考えを許容する」ということは、“無難“や“当たり前“以外の考えについて一考することである。話し合いになれていない子供たちは、「みんながぜひやりたい!」と思える意見より、「まぁ無難だし」や「それやったら楽だよね」等といった本質的なものと程遠い意見を出すことがよくある。おそらく突拍子もないことを言うと、反論されるだけでなく話し合いが終わった後にグチグチ言われるのではないだろうかという不安によるものが大きいのだろう。通常の学校でする話し合いは、意見を対立させるところから始める。たとえば「この人の行動はいいと思うか、だめだと思うか」このようにまず、子供たちは相手の意見を否定することから始めるのだ。「その人の行動は問題があり悪である」といった具合だ。つまり子供たちは無意識のうちに、「話し合いというものは否定されること」と思い始める。そういった子供たちが、自分たちで正解を創っていく話し合いをすると、意見を否定されるのを恐れ無難な意見をだす。自らが他人の意見を許容することが出来ないから、他人も許容できないと思い込み、踏み出すことが出来ないのだ。
一つ印象的な私の体験談をあげよう。
恐らくほとんどの人が、初めてであろう話し合いを終えた後、一人の女の子が私のもとに気まずそうな顔をして近づいてきた。なにか言いたいことがあるらしい。
 その女の子が発した第一声に私は、驚くと同時にすごく寂しい、悲しいといった感情が込み上げてきた。なんとその女の子は「ごめんね。さっきの怖い思いさせちゃったでしょ。」といったのだ。詳しく話を聞くと、意見が対立したときに怖い思いをさせてしまったのではないか、というものらしい。おそらく彼女は話し合いの発言を見る限り、中学校では口げんかが強い部類に入っていたのだろう。小難しい抽象的な概念の言葉を使い、極めてリアリストな彼女は周りと意見が対立したときに説き伏せるのは容易だったと思う。そんな彼女を周りは、討論では彼女と別のチームにはなりたくないなどといっていたことだろう。
 私は、少しだけ特殊な教育を受けていたためミーティングなどにおいて、“意見と人格否定”をごちゃまぜにすることはないが、慣れていない子供たちは、意見を否定されると人格まで否定されている気になり自然と自分の反対意見の子を怖いと思うようになるのだろう。
 さて、そんなこともあり彼女にはいろいろ伝えたわけだがこの呪縛が解けるにはあと一年はかかると思う。その間にどれほど経験を積み自分なりの考えを持つことが出来るのか少し楽しみでもある。
 一昔前ならいざ知れず、今現在どの年代でも活躍できる時代になりつつある。高校生が町おこしを先導し成功した事例もあれば、中学生の時に起業して大成功している子供も存在している。時代の流れに合わせより一層、人の考えを許容するということは大切になってくるだろう

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