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濱口竜介監督&深田晃司監督トークレポ「ミニシアターの思い出」@シネマスコーレ

濱口竜介監督と深田晃司監督が、40周年を迎えたシネマスコーレに登場しました。ミニシアター・エイド発起人のお二人が揃っての、ミニシアターにまつわるトーク。初めての自作上映やコロナ禍、そして今。レポートでぜひどうぞ。
(2023/03/25 司会:坪井篤史支配人)

ー 今日はミニシアターという場所についてお聞きします。最初にミニシアターを知ったのは?

濱口:高2の時、シネスイッチ銀座で岩井俊二監督の『PiCNiC』ですね。
ミニシアターという認識はなく、岩井俊二さんの映画がやってるところ。それが初ミニシアターだと思います。とにかくお洒落な場所でした。千葉から一人で銀座に行ったのも初めて、集まってる人もお洒落。自分が洒落たことしてる気持ちになりました。

深田:初めてではないんですが強烈だったのは池袋のACT SEIGEI THEATERです。アングラ感ある地下の劇場で、いろいろ観たんですが、覚えてるのはラース・フォン・トリアーの『キングダム』一挙上映。あとは高田馬場のACTミニ・シアターによく行きました。天井が低くて座椅子なんです。ゴダールを観に行ったらお客さんが誰もいない。アングラでお客さんが少ないのが、自分にとってのミニシアターですね。

ー ミニシアターは独自プログラムが特徴のひとつですが、思い出のプログラムはありますか?

濱口:小5から中1まで住んでいた岐阜のロイヤル劇場で、ケビン・コスナーの『ワイアット・アープ』。映画って面白いものだと思ってたら、寝ることもあるんだと呆然とした気持ちで出てきました(笑)。その後、東京でミニシアター通いが始まり、大学1年でパゾリーニ特集。変な映画があるもんだと。まだミニシアター的な映画に慣れてなくて、理解の及ばない映画が大量に存在すると知った。いまだに咀嚼できてません。

深田:ミニシアターしかできないなと思ったのはACTシアターの鈴木清順特集で、清順さんがトークをした後、一緒に飲みに行くという映画館でした。
清順さんに直接話を聞けるのが面白くて、印象的なのは『殺しの烙印』の炊飯器の設定がすごいと誰かが言ったんです。炊飯の匂いが好きな殺し屋という設定をどうしたら思い付くのかと。そしたら「タイアップで炊飯器を使わないといけなかったんだ」と。映画作りはそんな条件をクリアするのかと衝撃でした(笑)。

ー ミニシアターの面白さを知っていったんですね。最初にご自分の映画がかかったのはどこでしたか?

濱口:テアトル新宿で卒業制作の15分くらいのものをかけてもらったのが最初ですが、ガラガラでした。そんなものだなーと。初めて大画面で自分の映画を見て感慨深かったですが、その後、東京藝大大学院映像研究科の修了制作で『PASSION』という映画を修了制作展としてユーロスペースでかけてもらいました。その時は満席で「あのユーロスペースが自分の映画で満席」と感動しました。渋川清彦さんが舞台挨拶で「映画ってのは映画館で見るものです」と。一生忘れない光景ですね。

深田:自分は映画美学校に通っていましたが、8人中4人の修了制作がユーロスペースで公開されたんです。自分は選ばれず、スタッフで参加したんですが、ユーロスペースは本当に輝かしいブランドでした。自分の中で初めて上映したという感覚は20歳の時に友人と自主制作した『椅子』という映画で、地域の映画祭やPFFに出したりしたんですが、たまたまUPLINK渋谷という映画館に持って行ったら2週間、しかも1日3回上映しましょうと。舞い上がりました。でもそこからが大変。お客さん来るかなとソワソワ待って、5分前になっても誰も来ない。お客がいないまま上映が始まる。最初の15分上映し「では休映ってことで」と止める。その地獄を一日3回、2週間。上映の恐ろしさを味わった24歳でした。

濱口:すごいデビュー戦ですね(笑)。

深田:全部が0人じゃなかったけど、二進法だっけ? みたいな数字でした。

ー その後、いろんな作品で全国のミニシアターへ行かれたと思いますが、印象強い劇場は?

濱口:僕は神戸に3年ほど住んで『ハッピーアワー』を作り、今も毎年、初めて上映した元町映画館でかけてもらってます。舞台挨拶に立つ出演者が、東京のお客さんは「どんなもの見せてくれるんだい」みたいな目で自分たちを見てる気がするけど、元町は「よく帰ってきたね」と受け止められている感覚だと話してました。作って8年目ですが、この先もお付き合いが続くと思います。上映側と製作側の垣根が消え、同じスタッフみたいな感じになってきました。見せてもらう環境があってこその映画だと実感しますね。

深田:やはりUPLINK。担当者レベルでしか会ってないんですが、その後ほぼ全作品をかけてくれた。よくしてくれた映画館だけに、今こうなってしまったのは残念です。あとは札幌が思い出深いですね。ミニシアターとはズレますが、50年以上続く市民映画サークルが『ほとりの朔子』で呼んでくれました。地域のお客さんとの関係ができていくのが面白かった。地方で映画を支えている人は勢いがある。熱量のある人が映画文化を支えてるんだと感じましたね。

濱口:スコーレは40周年ですが、節目になった作品はあるんですか?

ー 動員数ベスト3では、1987年の『ゆきゆきて、神軍』ですね。次に2004年にソクーロフの『太陽』。代表の木全が「昭和天皇の作品をどこも扱わないだろう」と配給に掛け合い、東京と名古屋、2館でのスタートでした。

深田:全国2館だったんですか。すごい!

ー はい。それが2位ですね。そして2010年、若松孝二監督の『キャタピラー』が大ヒットしました。51人しか入らない劇場で3万人。85分の映画で、5回上映してたら若松さんが電話してきて「7回にしろ」。連日7回転フル満席で、この記録はまだ破られてない。

深田:スコーレを象徴するような話ですね。

濱口:ミニシアターエイドのきっかけになったのが、シネマスコーレのインタビューでした。3年前、あれを読んで私も深田さんも「これはまずい」と、ミニシアターエイドを始めたという経緯で。

深田:ミニシアターの人たちって、ちょっとやそっとの大変さでは大変と言ってくれないんです。だからあの記事で初めて知ることができた。あれは本当にベストタイミングでしたね。

ー 3年前の今日くらいなんですよ。こんなことになると思ってなかったです。その後、初めての休館に追い込まれて。

濱口:あのインタビューを読んだ時、スコーレさんには2015年に一度行っていたので、僕にも深田さんにも原動力になった。実際ここに来たことがあるというのは大きなことでした。

ー あれから3年、ミニシアターとの関わり方も変化したのでは?

濱口:エイドの活動をしてよかったのは、そこに劇場があるということが分かるようになった。全国で持ちこたえているミニシアターの存在が具体的に分かり、自分もそこでかかるようなものを作っていきたい気持ちも強くなり『偶然と想像』はそんな映画でした。今後もそういう映画を作るんじゃないかなと思います。

深田:基金をやる時に私たち運営メンバーに突き付けられたのは、ミニシアターって何なんだと。ミニシアターの定義から始める必要がありました。結局自分たちがミニシアターだと思うところは全部ミニシアターとするしかなかった。やり取りして顔が見え、いい経験でしたが、ミニシアターエイドは応急処置でしかない。もともと低空飛行のミニシアターは少し止まるだけでも大変で、何とかするための応急処置。想定外の金額が集まったけど、トラブルが起きるたびに応急処置ではどうしようもない。もっと構造的に、継続的に支援するシステム作りが次の課題かなと思ってます。

濱口:いわゆる日本版CNCですね。

深田:フランスや韓国のシステムで、フランスの場合はCNC(国立映画映像センター)という映像文化全般をサポートする仕組みがあるんです。昨年フランスで『本気のしるし』上映時に、アートハウスの映画館にインタビューさせてもらいました。コロナの時はロックダウンで3~4ヵ月営業できなかったんですが、ブローニュ市から約400万円の補助金が出て、従業員は失業保険が下りるから大丈夫だったと。コロナに関係なく毎年200~300万円の支援もCNCから出る。セイフティネットが何枚もある。フランスは人口が少ない地域も映画館は普通にあり、多くが興行収入以外に補助金で成り立ってる。基本的なインフラだという意識なんですよね。人口が少ない地域だからって電気が通ってなくて良いわけがないのと同じで、文化も権利として享受できなきゃいけないと映画や演劇、音楽が聴ける文化施設が必ずある。フランスの強み、文化の厚み。そういうことができないかなと。

濱口:文化も一つの精神的なライフライン。コロナの時にみんな感じたと思うんですよ。その感覚でそういう活動が広がっていけばいいなと。

ー 3年後も戻らなかったんです。レイトショーに人が来なくなった。まだどの劇場さんも引きずってます。それと物価高ですね。電気や水道、お客さんが少ないのに経費がどんどん上がる。定休日を作ることも考えたんですが、一度やると戻せない。毎月が戦いです。公的支援があれば危ない劇場さんもいろいろやれるんじゃないかと思う。これ以上ミニシアターを減らしたくないので。

濱口:コロナの時ほど分かりやすくない形でミニシアターに危機が迫っていると思うので、何とかしなきゃいけないけど、急に何かできるわけではない。でももしかしたら『キャタピラー』みたいなヒットが出ることで基調コードが変わる可能性はいつでもあり、それまでひとまず続けるしかない。作る側もそうですが、何か望ましいことが起きるまでできることを続けていくしかないと思っています。

ー とりあえず僕らも、お二人の新作をかけるためにも頑張ります。

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noteで坪井さんのインタビューを掲載したのが、ちょうど3年前のほぼ今日。トークの中で、濱口監督と深田監督がわざわざ私を紹介してくださり、恐縮でした。
世の中の状況は差し迫り、みんなどうしていいか分からなかったあの時期、迅速な行動をもって応えてくださったお二人に、心から感謝しています。
そしてとにかくこの日、坪井さんはじめスコーレスタッフの皆さんが本当にお二人の来館を喜び、明日への力を得ていたように見えました。
多くの応援者の存在を可視化したミニシアターエイドは、映画にまつわる人々に、お金以外にも大きなものを残してくれたこと。それを改めて思い出す、素敵な時間でした。

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