見出し画像

「ことばの栄養」のこと

会話や映画、本を読んだりSNSにつぶやいたりと、長く言葉と付き合ってきましたが、ふと、言葉の「意味」ばかり見ていたなぁと気付いてから心がフッと軽くなったのでちょっと書いておきます。

仕事にしても家族との関わりにしても、だんだんと『効率よく』『正確に』『欲しい内容』を求め始めていました。つまり、会話の中でも「それって意味あるの?」「本当に?」「もっと簡単に言うと?」「今はそれって正しくないみたいだけど」「前にも言ったよね」のようなことを思いながら、勝手にストレスになっていたような。

もちろん会話にしても記録にしても言葉を使うのはその言葉が持つ意味を伝えることが前提なんですが、声に出して言うところの言葉ってのは、「言い方」「表情」「抑揚」で言葉の「意味」に『気持ち』を乗せられるわけですよね。その部分って実は【ことばの栄養】だったのではないかと。

時々聞くことにこんなことありますが 
・「頑張って」って言われるの嫌だのね。もう頑張ってるのに。
・占いって根拠とか統計的にどうなんだろうね。詐欺じゃないの?
・尊敬してない人だから敬語とかいらないでしょ
・とりあえずで天気の話とかなんでするんだろうね
みたいな。
内容の意味とか根拠とか必要不要という目線で見るとたぶん「無駄」なこととして取り扱う事もあるのかもしれないし、かなりの部分で自分も省いたり新しい情報にシフトしたがってたりしていました。

元気な時や充実しているときにはいいんですが、心の栄養が足りないということを感じると、こういうときの『あったかい言葉』『優しい言葉』『思いやりのこもった言葉』ってのがすごく染みたりします。

そう感じると、これまで幾度となく頂いていた『ことばの栄養』をどれだけ捨ててきたことか。この感覚の違いでどれだけ無駄にストレスを感じたり、感じさせたりしていたことか。

必要なのは言葉の量ではなくて調整力だったんだなぁと思います。場合によって情報多め、栄養多めと、出すにしても受け取るにしても上手に使い分ける事で人生はもっと豊かで幸せになれるんじゃないかな。

誰でも、思っていることを上手に正確に言葉に変換できるかは分からないし、人によって表現が違うし、それを受け取るのも自分だけのフィルターを通すことになるので思いの行き違いってのはあって当然。コミュニケーションは誤解と勘違いだらけ。でもなんとかうまくいってる気がするのは信頼と思いやりなんでしょう。栄養が足りてない人にはなんて言ったらいいか分からないけど「大丈夫?」と言うだけでもいいと思うし、役に立つかどうかよりも栄養は届けられると信じてます。

でも、気を付けないといけないのは言葉は武器にもなってしまうという事。栄養の無い言葉はとても鋭くて冷たいものです。どんどん栄養を奪って行ってしまいます。これはダメ。絶対にダメ。

とにかく、はやくマスク外してたくさん会って話したいですねー。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?