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なぜ毒父は過干渉で支配型だったのだろう

私の毒父は過干渉で支配型な人でした。
子どもの持ち物、食べ物、遊び、習い事、友達、進学、就職、なんでも毒父が決めてきました。
嫌がったり自分の意志を伝えると、烈火のように怒り、怒鳴り、暴言・暴力・人格否定で子どもの心を封じ込め、毒父の思い通りにしてきました。

小学生~中学生のときは教育虐待が酷かった。
休日は勉強漬けで、算数の問題が解けないと、怒鳴りつけながら、本の角や1mm定規や布団叩きで、頭や肩や背中やももを叩かれました。
毒母はそんな私をかばうでもなく、物陰に隠れてニヤニヤしながら見ていたことを覚えています。

なんであんなに暴力的だったのかは子どもの時は分からなかったけれど、今思えば仕事や夫婦関係のストレス発散に弱い者に対してパワハラ行為をしていたのだと思います。

高校生の時は、教育虐待は無くなったけれど、重度の精神疾患の毒母の看病と家事をさせられ、私は小1~高3までの12年間ヤングケアラーでした。
毒父は仕事と酒に逃げていました。
毒母は自殺未遂を繰り返し、最期は特急列車に飛び込んで自殺してしまいました。

私は高校を卒業したら、もうこんな家から脱出するために、家を出て手に職を付ける為、全寮制の看護学校に進学するのが目標でした。
試験にも受かりました。
でも毒父はここから今度は進路を妨害してきました。
看護学校の内定は取り消され、家から通える地元の短大に進学するように命令されました。

また就職も、自分の意志で入所した保育士の仕事を、毎晩車で送ってくれた園長と玄関先で大喧嘩して、2年間で辞めさせられ、毒父が決めた家から通える地元の企業に就職させられました。

私は激しく抵抗しましたが、トイレに閉じ込められ、激しい暴言・暴力・人格否定を浴び、「短大まで出してやったのに」「家を出ていきなさい」と言われました。
家を出ていきたくても、お給料は全額毒父が管理していて、私が自由になるお金は無かったんです。
もう悔しさを通り越して、絶望と殺意しかなかったです。

毒父は自分が敷いた人生のレールを嫌がる子どもを引きずって生きているような人でした。
私は進学と就職で自分の意志を尊重してもらえなかったことを、私の人生が変わってしまったことを、50年経った今でも一日たりとも忘れることなく恨んでいます。

毒父が年老いて自力で生活出来なくなったら、家で死にたいと嫌がる毒父を、あのとき私が嫌がっても無理やり自分の言うことをきかせたよね?と言って老人ホームに引きずって入居させてやろうと思っています。

結婚は恋愛結婚でしたが、地元に就職している人としたので反対されませんでした。
しかし今度は共依存がはじまりました。
結婚式場を勝手に決めて予約したり、アポなしで家や勤務先に凸してきたり、招いてもいないのに孫の行事にしゃしゃりでてきて、家庭生活を完全に支配・過干渉されてしまいました。

独り身で暮らす寂しさを、私の家庭に構うことで埋めようとしたんでしょうね。
自分が妻を大事にしないで殺したくせに、孤独だなんて言わせない。

私は30代でストレスから統合失調症とうつ病を発症してしまいます。
毒父は「世話してやっているんだ!」と、ますます張り切って、私の家庭に介入してきました。

でも時は流れ、事件は起きます。
呼んでもいないのに孫の大学の入学式に乱入してきて、式典の一日を滅茶苦茶にして私と娘に過干渉してきたとき、このままでは私の家庭も娘の人生も壊されてしまう!と危機感を覚え、絶縁することにしました。

共依存の魔の手から逃れるまで50年の歳月がかかってしまいましたが、私は毒父を完全に捨てることにしました。
絶縁してから7年が経ちますが、今後毒父に何があろうとも、一切関りになることはありません。
介護もしないし、骨も拾いません。

最後毒父は「自分は正しいことをしてきた」と言っていました。
きっと自分から娘を捨ててやったんだと思っているでしょうね。
それでいいと思います。
もう二度と私の目の前に現れないでくださいね。
まだこの世に生きていることが、本当に恨めしいです。
うんと苦しんで早く死ね。

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