見出し画像

劇場を出て生活へ、美術館を出て日常へ?

以前、「私の活動にとっては"特別じゃなさ、簡易さ"が重要だと考えている」と発言した際、相手から「それなのになぜ現代美術という分野で活動しているの?」と問われた。
そう言った相手は、どうやら現代美術というフィールドをなにか特別なものが創出される場所だと捉えているらしかった。

確かに、何かを創作するのに特別な技術を要さないこととか、何かを発表するのに非日常という意味での特別さがあまりない場所を選ぶこととか、そういう方法と選択が現代アートらしいかと言われたらそうでもないような気もして、それを言われてから少しじっくりと悩む時間があった。

これまでも、私は自分の活動が芸術に分類されうるものなのか、自身に問うてきた。美術の実践と研究をする場所に身を置き続けながらも、私の目はいつも誰かの作品よりも誰かの生活を、日常を見つめようとしてきた。
私はなぜアーティストを目指しているのか?そんなありきたりな問いは、しかし私の歩んできた道に積まれた大きな大きな障害物となった。

劇場はなにか特別なことが行われるのを目撃する場所で、美術館はなにか特別な事物を目撃する場所であることが多い。その2つに共通するのは、「誰かに目撃されるために創作されたもの」が発表される場所であることだ。
だからこそ発表する人々は、その活動や創作の特別さを伝えようとする。それが着眼点なのか、それが創作技術なのか、それが手段なのか、とにかく色んな方法で目撃者を魅了しようとする。私には、この視点がぽっかり抜けているのかもしれない。

ここで少し私が何かを企画するときの話をするが、私を突き動かすのはいつも「私ではない誰か」である。誰かと関わり合う刺激の中で、私の慾望が生まれる。それは「この人のことをもっと知りたい」だとか、「この人ともっと誠実に関わってみたい」だとか、「嘘をつきたい」とか「本音で話してみたい」とか、そういう種類の慾望が私を突き動かす。突き動かされた結果、何かを作って発表することもあれば今日のようにブログを書いてみることもある。自分の中に議題として持つだけに留まったりするものももちろんあるし、"誰かとやってみる"という方法で少しだけ社会に開くこともある。

日常の中にある慾望が私の原動力である。そして、誰かの生活の中に自分の活動が届くことを願っている。その営みに、なにか特別さがあるわけじゃないし、あったほうが良いとも結論付けられないし、むしろ誰かの生活の中に届けるには、特別すぎないほうが良いとさえ思う。

最近、ある人に指摘されたことがある。それは、「宮森みどり」名義で活動をすることの権威性についてである。
権威と言えるほど私には発言力も発信力もないけれど、何かを企画して活動したり、発表したりすることは全部「宮森みどり」名義の実績となる。小さなものも、積んでいけば大きくなっていくかもしれないし、素直に言うならば、私はその名義を大きくしていきたいと思っている。

この欲望について、私はもっと考えなくてはいけないなぁと思う。誰かひとりじゃなくて、多くの誰かに届けたいと願っている理由の根源はどこにあるんだろう。
これを「社会への問題提起」と言い換えてみるのは簡単だがあまりに単純で、これをただ「私の欲望だ」と言ってみるのは簡単だがあまりに無責任すぎる。

特定の事物を多くの人にプロモーションし、発信し、実際に見せること。シェクナーの言うところの"As performance"、パフォーマンス的なもの。それは一昔前のテレビCMのように、イメージの流布によるプロパガンダ的に使えてしまうもの。そんなものが「私の欲望だ」としか言えないものだったら。そんな怖さを思ってしまう。

特定の人を力のある人が取り上げたとき、例えばジャスティン・ビーバーがピコ太郎を取り上げたとき、大きな経済効果が生まれた。例えばインフルエンサーが特定の誰かを叩いたとき、現代美術家が特定の属性の人を題材にしたとき、やはり社会は動いていく。発起人が思ってもみなかった方向に、大きなうねりが向かっていくことも少なくない。それを炎上と読んだり、バズりと呼んだりするんだろう。

わたしは社会を動かしたいんだろうか。積み重ねた小さな実績を元手に、大文字の社会を自分の思う正しさに導かんとしているんだろうか。そんな欲望が無いと断言できない自分をどう受け止めたら良いんだろうか。

アーティストになりたいってどういうことなんだろう。私の活動を多くの人に届けてみたいという欲望は、どこから生まれるんだろう。
その欲求を小脇に抱えながら、誰かの日常を、生活を見つめ続けていることを、暴力以外の言葉で語れるんだろうか。
誰かの生活に届けたいという欲求と、個人の顔も見えないほど巨大にも思える"社会"に届けたいという欲求は両立するんだろうか。

今日もまた答えは出ない。見たことのある幸せからしか、私の幸せを想像できない。見たことのある愛からしか、私の愛を想像できない。見たことのある成功からしか、私の成功を想像できない。そんな貧しい想像力に支えられるしかない私の生活を、今日もまた受け止めきれなかった。だけど今日は、これを人に見せてみようと思えた。それもまた、見たことのある成長の形なんだろう。

よろしければサポートお願いいたします! いただいたサポートは、活動や制作の費用に使わせていただきます!