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「ゾーニングすれば」は譲歩にも解決にもならないご時勢(高度情報化社会におけるゾーニング不全論)

表現の是非を問うトピックでしばしば「公共の場で無作為に人目にふれるのが問題なのだ」「ゾーニングさえきっちりすれば文句は言わない・言われないのに」という切り口が、是と非どっち側からも出ることがあります。
でもたぶん、これもう現在では議論の材料としてかなり弱い条件アングルになってると思うんですよね。

例えば(……たしか実際にあったと記憶してますがいちおう例えば、としておきます)「お店の18歳未満お断りコーナーへ踏み入って写真を撮ってインターネット上にアップして『こんなものが堂々と目に入るところに並べて売ってあるなんて』と告発する」なんて発端から特定の表現が問題視されうる世界に生きてる我々にとって、物理的なゾーニングはつねに無効化の可能性にさらされ続けます。広義に言えば国内のみ流通している作品が海外のネットメディア経由でマトにかけられるケースもありますね。
いや物理だけではなく電子的ゾーニングも同じことで、公開制限やDL販売の仕様で手続き的に奥まったところへ置こうとしても「こういうものがあるぞとネット上へ引きずりだして拡散する」ソーシャルハブ行為によって台無しにされてしまいます。クローズな鍵アカで発表したものが無断で公開アカに切り抜き転載される→さらに悪質まとめサイトが孫転載して大拡散→話題が耳目に入った人々により物議をかもす……なんてのは、まあまああるわけです。

だから、ある表現が目に入ってくるかどうか、さらに話題が耳に入ってくるかどうかはバズるかどうかの確率論に行きつき、どんなにモノが空間的に隔離されていても「安心できる」環境というのは組み上げづらくなっています。
「ゾーニングすればいいだけだ」は実質的に「この世に存在するかぎり耳目に入りうるので消え失せよ」という殲滅戦に限りなく接近していくし、もっというと現物が消えて以降にも画像と話題は後に残って“公共の場”を侵し続けるなんて地獄もあるのが笑えません。

……という諸々をふまえると、議論の大前提としてネットの拡散構造上に立つ高度情報化社会においてゾーニングというのはもう不能に近い処置であると認識し、「公共の場/望む人だけアクセスできる場」というパキっと割れた空間軸のイメージもいったん脇に置いて、人目にふれるかどうかはネットでバズる確率の時間軸上のグラデーションの問題である、というところへ重心を移したほうがまだなんぼか益体のある話へもっていけるんじゃないかなー、とか、なんかそんなことを考えてしまうのでした。見せる・見せないではなく、耳目に入る確率をどうすればコントロールできるかという方向。

ネット上で「ある表現にふれたことによって傷ついた」という訴えがなされて火が付く議論に際して発信サイドと受信サイドの取っ組み合いになり、いつのまにか初期段階で媒介になった拡散者が半透明になりがちなのが気になっています(話題に乗って煽るだけ煽ってから自分だけツイ消しして高みの見物するとか)。ネットでは”公共の場”の境界はそのモノ以上にハブ行為によって侵されうるということ、そしてその意味で悪質まとめサイト(およびその煽り記事をバズらせること)はマジであかんやつだというのは是非どっちの立場でも共有したいところです。

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