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たけしという「多重人格者」:「鏡」の中の北野武監督映画入門①――『その男、凶暴につき』をテキストに


 (この「『鏡』の中の北野武監督映画入門」シリーズでは、『その男、凶暴につき』を含め、多くの映画作品のネタバレを含みます。文章内容の性質上ご了承ください)


 かつて『足立区のたけし、世界の北野』という題のバラエティ番組をフジテレビが放送していたが、なかなか端的にたけしという人間を示しているように思う。1997年に『HANA-BI』でベネチア国際映画祭のグランプリである金獅子賞を獲得したのはじめ、世界的に著名な映画監督としての顔を持ってるが、一方でバラエティでコスプレをしながら共演者に喜々とした表情でいたずらを仕掛けるの顔を併せて持っていることも、我々はよく知っている。
 もちろん芸能人も人間である以上、媒体や場所に応じてキャラクターや作風を臨機応変に変化させるのはたけし以外の芸能人や映画監督にも当てはまるが、文学やアカデミックな仕事は「北野武」、お笑い芸人としての仕事は「ビートたけし」と、自ら線引きをしているたけしには、そのギャップに注目する意味はほかの芸能人や映画監督より大きい。この点はたけし本人も言及している。

―-俺なんかはコメディアンだから、自分の権威をわざと上げたいんだよ。なんなら文化勲章まで欲しいわけ。それで立ちションベンで捕まりたい。その日の飯も食えないようなコメディアンが立ちションベンしたって何もおもしろくない。だから総理大臣ぐらいまで上がんねえかなと思ってる。そしたら万引きして捕まっても笑えるでしょ。
北野武「文化勲章でももらっちゃって、立ちションベンで捕まりたい」

 しかしたけしの「顔」はコインのような、単純な「表裏」だけではない。『浅草キッド』では、歌手としてはご存じの通りだが、詩人(歌詞は本人によるものである。たけしは『僕は馬鹿になった』という詩集も出版している)として、曲の題を冠したお笑いコンビの師匠として、また私小説家として同名の作品も上梓している「多重人格者」である。

 このたけしの「多重人格」具合はメガホンを取った映画作品にもよく表れている。たけしは映画監督として、画面の中にいる「俳優・たけし」を自らを演出し、圧倒的な暴力で敵役を振るわせたかと思えば、何度も死の淵に追いやっている。
 今回こうした北野映画のなかのたけしをめぐる様々な関係性を「鏡」という語を用いて考察を試みる。正面に座れば限りなく正反対に近い「像」を映すが、表面が汚れていたり、角度や光の当たり方を工夫すれば、同じ対象物でも違った「像」を「鏡面」に映すことが可能だ。こうした「像」と「鏡」の関係性は、たけしの好きな数学における、命題の対偶、逆、裏の関係に近いかもしれない。

命題:「pはqである」に対して…

対偶:「qでないならpではない」
逆 :「qはpである」
裏 :「pでないならqではない」

 映画は理屈で語り切れるものではない。なんの考えも無く、頭をからっぽに観て楽しむことだって可能な娯楽であり、特にたけしの得意とするバイオレンスは特にそうした趣きが強い傾向にある。しかし理屈を並べ、どこまで語り切れるかに挑戦するのもまた映画の楽しみ方のひとつであり、見えてくることも必ずある。「理屈っぽい」のは「理屈抜き」に対して正反対の関係性ではあるが、双方とも「映画の楽しみ方」として不正解ではない。これもまた映画を通じた、ひとつの「鏡」の関係性だと思う。

 シリーズのイントロダクションということもあり、やや硬い印象の文章になってしまったが、要は「俺の好きなたけしって、こういうところが面白し、すごいんだよ~」ということが伝えらえれたら良いなという記事にしていきます。

●映画とは関係ない余談●
 たけしには『浅草キッド』以外にも、『TAKESHIのたかを、くくろうか』や『東京子守唄』など本職の歌手には出せない魅力を持った名曲も多い。しかし『浅草…』が群を抜いて名曲なため、その他の曲は低い評価を受けている実情がある。すこしもったいないと思う

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