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メヒアにもう一度、心を込めて「Gracias(ありがとう)」を言いたい

 

 「打った瞬間(スタンドに)入ったとわかる当たり」という表現がある。弾道の角度と打球の速さが最高のカタチで合わさった、数ある野球のプレーのなかでも胸踊る場面のひとつだ。
 エルネスト・メヒアにはそうしたホームランが多かった。ガッチーン!という感じで白球を掬い上げ、数々の打球をスタンドインさせていった。伊集院光はラジオで「メヒアの打撃練習は、もはや“ボールへの虐待”だった」と形容していたくらいだ。余談だが、『伊集院光 深夜の馬鹿力』で当時の構成スタッフが芸人時代「ナオ・デストラーデ」という芸名だったこともあり、伊集院は彼に作家としての名前を「ナオ・メヒア」と命名していた。伊集院は後楽園時代からの日本ハムファンだが、メヒアという選手が他球団の大ファンからも注目されていたことがうかがえる。

 メヒアが米AAAのグウィネット(ATL傘下)から、所沢にやってきたのは2014年の5月のことだ。14年当時のライオンズは、監督に就任したばかりの伊原春樹の管理野球が浸透せず、5月2日に岸孝之がQVCマリンで準完全試合を達成するも、トピックはほかにコーディ・ランサムの耳に残る応援歌くらいで、チーム成績は散々なものだった。長年西武を応援しているが、記憶してる限り1番重苦しい雰囲気だった気さえする。
 メヒアはそんな雰囲気を自身のバットでぶっ飛ばした。来日初打席初本塁打を放つと、勢いそのままに、106試合ながら34本で中村剛也と並び、NPB史上初の「途中加入本塁打王」となった。144試合に換算すると46.1本と、いかにハイペースで打ってきてたかがわかる。ちなみに三振についても150三振で“三振王”を獲得しているが、こちらも驚異的なペースである。

 メヒアってスゲーな、来日前はどんな選手だったんだろうと調べてみると、野球のデータに目が行く前に「12月2日生まれ」という数字が目についた。メヒアとは8つ違うが、私と同じ誕生日である。12月2日生まれの野球選手は少なく、ある程度以上実績を残した選手では権藤博くらいであった。なんだか急に縁を感じた私はいっそうメヒアを応援し、いつしか「マル」という名前で縁を感じていた、ドミンゴ・マルティネスを上回り、西武に来た外国人選手で1番好きな選手になっていた。
 ドミニカの偉大な先輩、アレックス・カブレラは、「やんちゃ」とか「悪童」という感じの言葉が似合う愛嬌だったが、メヒアは対照的に紳士そのものだった。インタビューなどでは常に「西武愛」を語り、真面目だが硬っ苦しい印象は無く、頼もしい笑顔で日本に溶け込んでいった。居酒屋のCMに出演したり、山川穂高の例のどすこーいポーズを「やりそうでやらない」というギャグを試みたり、プレー以外でも目が離せない、模範となるような「カッコイイ野球選手」のイメージをそのままつき進んだタイプだった。
 タイトルこそ2014年のみだが、16年は夫人の出産に立ち会うため、一時帰国するまで日本ハムのブランドン・レアードと激しいホームラン王争いを演じた。その後も節目節目でアーチを掛け、19年には西武球団通算9000本、20年にはCAR3219フィールドのお披露目試合で、新球場1号を放っている。また楽天戦(特に松井裕樹)にめっぽう強く、西武とゆかりのある選手が多い楽天とのゲームで打つのは、他のカードで打つ以上に意味があったように思う。

 去年は代打を中心に11本放っているが、今年は前半戦を終えてわずかに1本。やはりこの環境と社会的情勢のなか、地球の反対側でコンディションを保つのは大変なんだろうなと思っていた矢先に、今回の退団の申し出となってしまった。退団は残念だが、決して喧嘩別れでは無い。世の中が落ち着いたら、また日本や西武球団との交流を続けてほしいと強く願う。
 忘れもしない、2018年3月2日。ヤクルト戸田球場に2軍戦を観に行くと、スタメンの4番に調整で2軍に帯同していたメヒアがいた。出場を終えたメヒアはベンチ後ろのファンの前に現れ、静かにサインをしてくれた。バッターらしい厚い指でペンを握っていた姿を、今でもよーく覚えている。大学のスペイン語の成績が非常に悪い私だったが、人生で初めてスペイン語圏の人物に「Gracias(ありがとう)」と言うことが出来た。その一言が出ただけでも勉強しておいて良かった。
 個人的な話になるが、当時心の病気で会社を辞め、あまり浮かばれない生活を送っていたが、この戸田での出来事は一筋の光明となった。名前をモジって「メシア」なんて呼び方をするファンもいたが、私も救世主たる彼に救われたのだ。戸田球場では嬉しさのあまり声が震えてしまったが、もう一度心を込めてメヒアに言いたい。「Gracias」。

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