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マイノリティも無差別に標的になるという平等:「鏡」の中の北野武監督映画入門③――『その男、凶暴につき』をテキストに


 (この「『鏡』の中の北野武監督映画入門」シリーズでは、『その男、凶暴につき』を含め、多くの映画作品のネタバレを含みます。文章内容の性質上ご了承ください)


 例えば1990年に公開された『ホーム・アローン』は、当時天才子役と称されたマコーレ・カルキン演じるケビン少年が子供らしい、いたずら心と正義感をもって、泥棒コンビをやっつけるハートフルコメディである。
 「鏡」に、このケビン少年と泥棒コンビの関係性を照らし合わせれば、

 「子供」⇔「大人」
 「弱者」⇔「強者」
 「孤独」⇔「コンビ」
 「善」⇔「悪」

 という感じになるだろう。そして明快な「勧善懲悪」や「判官びいき」によりコミカルな笑いと温かみを生む。この映画で心の底から泥棒コンビの側に感情移入している観客は、
多数派ではないだろう。


 たけしは『その男…』に始まり、以降もヤクザや心身に障害の持っているなどの、多数派ではない、マイノリティという意味で「弱者」の立場にあるキャラクターをたびたび映画に登場させてきた。しかし『ホーム・アローン』のような、一人ぼっちの子供が悪い泥棒コンビをやっつけるような、胸のスカッとする登場の仕方ばかりでは無い。それは『その男…』の冒頭部分を流れを追うだけでもよくわかる。たけしが映画監督デビューした作品の冒頭という「始まりの始まり」を、簡単ではあるが書き起こす。

 ①:夜の公園で食事をする浮浪者
 ②:10代前半と思われる男子の集団が、その浮浪者を襲撃する
 ③:浮浪者が動かなくなったことを確認すると少年たちは散り散りに帰路に就く
 ④:1人の少年が自宅に戻っていくのを確認すると、我妻(たけし)が少年の家に現れる
 ⑤:我妻は警察手帳を母親に見せ、そそくさと二階の子供部屋に上がり込む
 ⑥:我妻は少年が子供部屋のドアを開けるやいなや殴りはじめ、痛めつけながら警察に仲間を連れて出頭するよう促す。少年が浮浪者襲撃を否認すると、さらに暴力を加える

 ファーストカットのみすぼらしい格好の浮浪者は、まさに分かりやすい「社会的弱者」である。しかしこの浮浪者を「鏡」に映すと登場したのは、遊び感覚で暴力を振るう少年たちという、「また別の種類の『弱者』」なのである。慈善の心を持った者が救いの手を差し伸べるか、浮浪者は実は武道の達人で、不良少年たちを1人で一網打尽にするような、観客の心が晴れる物語は起こらない。うす暗い公園というビジュアル的にも「ブルー」、すなわち「憂鬱」の色を纏った北野映画は、「弱者VS弱者」という残酷なマッチメイクをし、我々観客にダメージを与えるのだ。
 一見浮浪者を痛めつけ「勝者」「強者」になったように見える不良少年達だが、家に帰れば、親を疎ましく感じる子供に戻り、さらに本来「弱者」を守るべき刑事に額から血が噴き出すまで暴行を加えられる。あっという間にまた「弱者」にされるのだ。少年を通じて「加害者」⇔「被害者」という「立場」の「鏡」を素早く反射させるのも、前回紹介した暴力のスピード、たけしが繰り返していた<突発性>に通じるだろう。

 次回詳しく述べるが、我妻には知的障害のあるらしい妹がおり、我妻と対峙する殺し屋の清弘(白竜)は同性愛者らしい描写がある。両者マイノリティの立場にあるが、彼らも『その男…』という映画のなかの、圧倒的な暴力に飲み込まれていく。だがこれはある意味では我々の生活する現実の暴力と照らし合わせて、『ホーム・アローン』のような「弱者」が「強者」を懲らしめる番狂わせより、現実の陰惨な暴力に近い。
 不幸なことだが、現実には大統領から子供まで誰もが様々な形で暴力の標的になる。この世界は残念ながら勧善懲悪のあらすじをなぞる映画ではないのだ。可愛い子供でも、障害を持った妹でも「マイノリティ」だからといって暴力から守られる、仇を取ってもらえるということはない。現実によく似た北野映画は、登場人物の誰もが標的になる分、いつ暴発するかわからない緊張感を生み、「映画の外」にいるはずの観客たる自分もそうなるかもしれないという、憂鬱を想起させる。この強い暴力と観客の近さこそ、北野映画の暴力の恐ろしさなのだろう。

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