「教科」でない「外国語活動」という「領域」

 この時代の早期英語教育論から、1980年代に流行したアルファ波・ベータ波などの超科学系「トンデモ論調」は駆逐された。第一に英語活動が公式の教育課程に入り、以前に比べると多くのリソースが投入された。第二に大学で英語教育に携わる研究者が支援・助言のために大量に小学校の現場に入った。第三に少々無理筋の早期英語の効能を声高にすることがなく、地道に漸進的に現状を変えていくような研究がなされた。第四に、早期英語によって英語が身につくという信念が実証研究の蓄積によってもはや迷信に過ぎないと認識され始めた。開始年齢よりもその他の環境要因、例えば接触率や指導者の質の方がはるかに重要だということが明らかになった。

 総合学習における英語活動は次の段階に入り、2011年から「外国語活動」が必修化された。

 「外国語活動」は中学・高校の伝統的な授業と一線を画し、代表的な相違点が英語力育成よりも、学習態度や異文化理解、会話への積極性といった情意面を重視する点であり、「教科」ではないから数値で成績評価をしない「領域」とされた。この第一の指導者は学級担任であった。

 この時期の審議は大きく四つの会議がある。2006年の外国語専門部会「審議の状況」までを審議前半とし、それ以降の07年8月30日の小学校部会、9月10日〜12月25日の教育課程部会、08年1月17日の中教審答申までを審議後半とする。

 審議前半での審議は順調とは言えなかったが、緩やかながら合意が取れたのは、程度の差こそあれ、すべての児童に共通の英語教育を施すことを肯定していた。

 またこれでも全国の各学校のよって実施度にばらつきが著しかった。これを問題視し、国として一定の枠をはめるべきだというのが外国語専門部会の総意だった。しかしその当時、小学校英語反対論は大きなうねりになっており、必修化に懐疑的な関係者も多かった。こうした賛否両論ある中で、必修化への見通しが立ったのは、外国語専門部会の委員が賛成派で占められていたからである。要するに委員の人選の時点で必修化の道筋が見えていた。

 審議後半において、2007年8月30日、中教審小学校部会で突如、「領域」として学級担任主導による英語教育を高学年で週一時間必修化するという方針が示され、了承される。この提案は、9月からの教育課程部会に回され、そこで「外国語活動」という呼称が決まり、内容についてほぼ修正なしで了承される。そして翌年1月の答申、3月の学習指導要領改定につながる。

 小学校英語部会の審議プロセスにおいて、この基本方針は、議事録を見る限り、討議をした形跡がほとんどなく、事務局が領域化及び授業時間数の原案を示し、各委員が感想を言うだけであった。おそらく事務局主導で整理された方針だろう。ここから推察できるのは、審議過程における文科省のイニシアティブである。

 ここで「外国語活動」とは何かを確認する。
1)小学校高学年で週一コマ必修
2)教育課程場の位置づけは「領域」であって「教科」ではない
3)主たる教育目標は言語・文化・コミュニケーションへの態度の育成。英語スキルの育成は明示的には示さない。
4)第一の指導者は学級担任。

 その必修化の理由は、
1)グローバル化への対応が急務=英語教育の一般的な重要性の認識
2)あいさつ・自己紹介などの初歩的な内容は小学校がふさわしい。まずは聞く・話すは小学校から先行開始した方が良い=早期化の根拠
3)英語活動の取り組みにばらつきがある、教育の機会均等、中学校との円滑な接続の観点から共通の教育か内容を設定すべきだ=全国一律に導入する根拠を、それぞれ述べている。

 英語力養成を目標にしなかった理由は「教科」ではないからである。「外国語活動」の目標は三つの柱からなる。
1)外国語を通じて、言語や文化について体験的に理解を深める
2)外国語を通じて、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図る
3)外国語を通じて、外国語の音声や基本的な表現に慣れ親しませる

これらを見ると、スキルや知識に関連した表現が避けられていることがわかる。

 なお2)は「外国語でのコミュニケーションのみを念頭に置いているわけではない」と言われていて、「他者とのコミュニケーションが図れないケース」が見られる。その解決のために外国語活動でコミュニケーションの大切さを理解させるべきである。これは要するに、会話への積極性を育成しようという提案であり、まるで心理カウンセリングの技法のようである。この特異な目的論は答申にも中教審の議事録にも出てこない。しかし小学校英語関係者の少なくとも一部には浸透していた主張だったようだ。

 次に大事なのは、専門教員でなく、学級担任を主たる指導者としてしている点だ。「解説」によると、コミュニケーション意欲の創造を目指す授業を作るには、児童のことをよく理解している必要がある。また初めて出会う外国語への不安を取り除くには、学級経営に長けている必要がある。これらを兼ね備えたのが学級担任である。つまり、英語スキルの育成でなく、情意面の医育成が目標なのだから、児童の日頃の様子をよく知っている人間が指導すべきである。

 この指導者観が残ったことで、「普通の英語教育」を求める声に、国際理解教育としての英語活動の蓄積を大切にすべきだとする声が競り勝った格好になっている。

 こうした特殊日本的な外国語活動の誕生は、直接的には文科省によるコントロールの成果であった。この頃の2006年9月に就任した伊吹文科大臣は、就任後記者会見で突然「必修化反対」を表明した。しかしこうした極端な意見の持ち主を説得し、外国語活動の方向づけを行なったのが文科省事務局であった。

 これらの製作過程において、文科省事務局が主導権を握るというのは、審議会や世論を軽視している面もある。しかし、文科省が内閣、政治家、財界、急進的な意見を持つ審議会委員などからの種々の課題な要求に対するバッファーとして機能している面もある。だからこそ、急進的なプランが提案されても、教育の現実とすり合わせながらソフトランディングさせることができた。こうした政府内力学の一つの帰結が、特殊日本的な小学校英語のあり方だったと考えられる。

 この時期の論点は多様であったが、議論が白熱した争点は意外に少ない。その中で大きな注目を集めたのが、小学校英語は英語力育成に効果があるのか、あるいは国語力の低下につながるか否かの二点である。

 英語能力育成に大きな効果があると考える賛成派に対して、そのような効果が期待できないか、あったとしても現行の公立小学校の教育環境では大した効果を見込めないと主張する反対派がいるという構図だ。

 早期開始のメリットは、早くから始めればその分学習時間が長くなるから効果が上がるとする「量」の観点があり、一方、早い時期の方が何らかの生物学的・発達的理由から学習効果が高いというのが「質」の観点である。

 小学校英語論議が前提とするのはほとんどが質の観点である。というのは小学校教育課程では、現実的に週1〜2時間程度しか授業時間を捻出できない。

 また早期開始の質的な利点として根拠に上がるのは、大きく分けて、

1)早くに始めたおかげで英語が上達した知人(あるいは自分の)子ども」という逸話的もの

2)脳神経科学や発達心理学等の知見をもとにした推論

3)早期英語学習経験者と非経験やを比較した実証研究の成果である。

 これらのうち、1)は「都市伝説」のようなもので真剣な検討に値しない。2)はこれまでに見てきた通り、「トンデモ理論」に位置する似非科学による不適切な主張である。

 ここで重要視された実証研究とは、早期英語経験者と非経験者の比較研究が行われた。このうちいくつかは確かに早期英語の有効性を示したものもある。しかし有効性を証明したとする実証研究には問題も多い。特に

1)対象者選択の問題で、調査対象の多くの場合私立学校や研究開発学校に通っていた特殊児童であり、公立省全体に一般化することは難しい。

2)そもそも実証研究の中には、効果に関して否定的な結果を示したものも多い。つまり効果はバラバラで、効果について白黒ついているわけではないのである。

 多くの研究は真摯に取り組まれていたが、否定的結果を示した研究の存在は衝撃であっただろう。したがって、近年では早期英語教育を素朴に楽観視する論調は鳴りを潜めている。とりわけ、研究者は、一般論として早期英語の効果を肯定してもそれには授業時間数・指導方法・そして指導者が適切であればという但し書きを付すことがほとんどだ。

 一方反対論の中で有名なものが、小学校で英語を始めたら子供たちの国語力がダメになるという主張である。

 その議論を荒っぽくまとめると、もし反対派が言うように、「子どもたちの心の奥底に根ざした母語は外国語を週に1時間や2時間やった程度のことでぐらついてしまうほど柔なものではありません」とするなら、、国語力にもおそらく影響は出ないはずだ。つまり、英語は身につかないという主張と国語がダメになるという主張は両立し得ないのである。

 そして、賛成派と反対派の意見の対立は価値観の違いというよりはデータの欠如、つまり情報不足に起因している場合が多いのではないか。むしろ価値観の対立で言うなら、賛成派内部の対立、つまり小学校英語は英語習得のためか、国際理解教育のためかの方が深刻に思える。

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