偽史生成の例として

 偽史の生成されるモデルケースを見る。枚方市東部の津田山周辺地域。津田城は津田周防守正信によって1490年に築かれた。その孫にあたる正明の代に三好長慶に仕えることで現在の枚方市域の大部分を治めたという。この津田城を見ると、本丸というべき中心となる曲輪は本来山頂に設けられるものだが、これは谷の最奥部にある。しかも防御ラインを見ると強固な土塁で囲まれた入口と土橋が城下と逆の方向に存在し、肝心の城下となる側には一切防御施設がないという不自然さが見られる。

 また津田城が津田氏の居城であることを記した史料を探すと、ほとんどが津田村の村人が編纂した史料で、いずれも17世紀末以降のものだ。津田村外部のものは「五畿内史」などに見えるが、18世紀以降しか確認できない。戦国期の史料には津田氏の姿が見えないのだ。

 この17世紀末というのは国見山西側の津田村と東側の穂谷村との間で津田山の支配権を巡る争いが始まっていた時期である。鎌倉時代以来津田山周辺は津田郷と呼ばれ、氏神は三之宮神社で、津田山はこの神社に帰属する宮山であった。その後開発が進み、新たな集落が誕生したが、その村々は三之宮神社の祭祀にあたっては協力者の立場にしかつけず、願主はあくまで津田郷の本村である津田村のみだった。しかし、さらに開発が進むと、三之宮神社は穂谷村の中に位置することになってしまった。17世期末の支配権争いは穂谷村がこの矛盾を利用し、自村にも津田山の支配権があることを主張したことに始まる。

 この争いは1694年、京都町奉行で裁かれ、津田村の勝訴に終わった。この争いの最中に津田村の歴史をまとめた書物が次々と編纂される。その中で初めて津田氏の存在が生み出されたのである。穂谷村にとっては寝耳に水であった。

 裁判で津田村が提出した津田山絵図には、その中央に津田氏の城が描かれ、周辺には「津田村山内」と記されていた。この勝訴によって、津田城の名が巷間に知られることとなった。それは現実に遺構らしきものが存在したからだが、城として不自然であると言わなければならない。

 津田上と言われる遺構は、山頂部分に手を加えず、そこから若干下った谷地形の最奥部に中心となる坊舎を置く山岳寺院の一般構造と同様の作りになっていたと考えるのが自然である。また松永久秀が河内方面へ進出するときに津田を足がかりとし、その地が軍事的に利用されたことが文献で確認できる。つまり、津田郷は津田氏のような有力な領主を生み出す環境にはなく、一揆山城国縁辺に広がる一揆地帯の一部であったと想定される。

 また、穂谷村の主張についてみれば、平安後期に成立した「日本紀略」に、天長八年に河内と山城に三箇所ずつ氷室を増設したと記される。しかし具体的にどこと書かれていないことを逆手にとって、まず穂谷に設けられ、さらに尊円寺、杉、傍示に増設されたとする。そのため、朝廷と結びつきの深い穂谷こそが元来この地域の中心的存在であったと主張するようになる。

 穂谷村は山村の小村であった。数の論理で不利な穂谷村が津田村と戦うには同じく山間部の他の村との連携を必要とした。所在不明の氷室が三箇所増設されたという事実は、三之宮神社のある穂谷村の優位性を示すと同時に、三箇村の結束を固める格好の素材であった。また傍示村には氷室山八葉蓮華寺という寺があり、氷室の伝承が残っていた。

 この氷室伝説が17世紀末の津田城伝説にやや遅れて登場することは、長期にわたって残る津田村の庄屋日記で確認できる。三之宮神社では雨乞いの神事が頻繁に行われていて、村々が能を奉納するとき、五番演じるうち一番目の演目は必ず「氷室」だった。その初見は1734年で、津田村の庄屋にとって、その言葉は聞き慣れなかったと見えて、日記には「ひむろ」とふりがなが振られていた(笑)。

 氷室の存在が定着するようになると、同時に穂谷・尊延寺・杉村は結束を固め、その熱が上がるほど対する津田村も津田氏の存在を語ることになる。こうしてありもしない伝説が定着したのではないだろうか。

 三之宮神社には1520年に南都興福寺の組織運営にあたった三綱が氷室のできた由来を承認する古文書がある。これにより氷室の実在性は高められていた。それとともに、津田郷の惣社を氷室郷惣社とし、あたかも穂谷村の神社のように記す文書もある。これらの史料はいずれも椿井政隆が作成したものだ。このように伝統的な利権が絡んだ村同士の争いがある場に椿井はしばしば登場する。

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