49歳で亡くなった兄の膵臓がん発覚から1年8ヵ月の記録 ―妻からの聞き書き⑤

俺、頑張ってるんだけどな

【2018年10月28~29日、X-4~3日】

最後の決め手は、若社長さんが来た日だった。亡くなる4日前だったけど、来ることが決まっていて、何とかそこまではという気力だよね。夕方に来ることになっていたけど、朝からずっと横になっていて、寝ているのか起きているのかっていう感じで、「今日、若社長さん来るからね」って言って、本人もわかってはいたけど、意識に体が追い付かない感じで。

若社長さんと話をしたのは10~15分くらいだったと思うけど、これほど大変な状況を目の当りにして、どうしたらよいのかわからない、戸惑っている様子が見受けられて。若社長さんは、「頑張ってください!」って、「またゴルフにでも行きましょう」って言って握手をしたんだけど。そういうふうにしか言えなかったんだろうけど、私はもう「酷だな」って思ったその言葉が。そんなのもう難しいし、こんなに頑張っている状況で頑張って下さいって言われても、もう十分頑張っているし、今かけるべき言葉はそれじゃないんだよ!って思って、けっこう私は。ゴルフとかとんでもないって思ったけど、それが精一杯の言葉だったんだろうなと。

帰った後に、「俺、これでも頑張っているんだけどな」っていうのをポロっと言ったんだよね。そこで張りつめていた糸が切れちゃった感じだよね、そこで本当に。「全部楽になりたいな」って言ったの。それで次の日の朝に「おれが死んだら…」という話をし始めて、マンションはローンがなくなるからとか、銀行にはいくらあってとか。それで携帯がひらけなくなると困るから、じゃあ2人のわかるロック解除のパスコードにしようということで、2人の誕生日に設定したんだよね、それはちょっと嬉しかった。そのときに、お葬式をどうしたいのかを聞こうかなとも思ったけど、まだ聞けないなと思って。全然そういうのは希望がわからなかったから、これでいいのかなって思ったけどね。看護師さんにも、今日は弱音をはいて、こんなことを言ったんですって伝えて、そこがターニングポイントみたいな感じだった。記録を見ると、その日のお昼過ぎにぶどうゼリーを食べたのが、固形物を口にしたのは最後だったんだね。

看取りの日が近づく

【2018年10月30~31日、X-2~1日】

それからは、目が覚めたタイミングで「おトイレに行く?」って聞いて、点滴のポールにつかまって壁伝いに、私も支えながらトイレに行って。そうだね、最後の最後までトイレは自分で行って、すごかったね。看護師さんも言っていたけど、そこだけは本人の譲れないポイントだったんだね。オムツをするっていうのがすごく嫌だったんだろうなって。

「念のためにオムツを置いておこうか」って看護師さんが言ってくれたときに、智雄さんは意識もうすらうすらな感じで寝ていたんだけど、「え?オムツ?」って言ったんだよね。それで、あ、いやなんだなって。看護師さんも、あ、いやなんだねって。一応持ってきてくれたんだけど、本人の目の届かないところに置いておいておくことにした。車椅子も災害時のためにと思って念のためにレンタルしたんだけど、それも本人の見えないところに置きたかったから、玄関の横の部屋に置いてくださいってお願いして。

そうだね。点滴の管がつながっているのも嫌だったみたいで、「これいつとれるの?」って聞いてきたり、無意識ではずそうとしたり。これが嫌だとかこうしたいとか、そういう意思表示はけっこうあったね。起き上がりたいっていう気持ちもすごく強くて、よく両手を上げて。そうすると私が引き起こしてくれるっていうのがあるから。自力で起き上がろうとする感じは、生き様じゃないけど、すごく残っているし、意識は朦朧としているのに、起き上がりたい、座りたい、立ち上がりたいっていう感じはすごかった。

たまにせん妄っていうのかな、全然、脈絡もないことをいきなり言ってびっくりすることがあって。そうだねとか、大丈夫だよとかしか言えないから、そこで精神的にしんどくなってきて。チャージをしてどうこうとか、あと7年もかかるじゃんとか、仕事のことだったのかな、あとは関西弁も1回出たんだよね。だから昔の子ども時代のことを思い出しているのかなと思ったんだけど。わからないけど。私の前では出ない関西弁がふっと出た。

そういう意識の状態については、先生の見解も、睡眠薬が効きすぎているのか、病気のせいで意識レベルが低下しているのかは、ちょっとわからないという感じだった。ただ、先生が来るとちゃんと受け答えをするようなところがあって、私と2人のときには弱っている感じだったりするから、甘えているんだな、みたいな。

それと、「お茶を飲む?」とか「口すすぐ?」とか聞いて、お茶を口に含んでペッてする用に小さなバケツを渡していたんだけど、バケツのほうを飲もうとして口に持っていったときには、それもせん妄と同じくらいショックだったね。

それで、「みやちゃんとお義母さんがお手伝いに来てくれるって言うんだけどどうかな」って聞いたら、私が楽になるなら来てもらったらって言ってくれて。ひとちゃんもいれば、何となく明るくなるだろうしと思って。お義母さんに自分が弱っている姿を見られるのが嫌かなって、いろいろ考えたんだけど、智雄さんがそう言ってくれたから甘えようって踏ん切りがついた。

30日(X-2日)の夕方に最後になったトイレに行って、戻ってきた頃に、みやちゃんとひとちゃんとお義母さんが来てくれて、そこで「ひとちゃん」って言った言葉が最後だったよね。

その晩は何回も起きて、本人が起きたいって手を伸ばすから起こしたら、立ち上がりたがって、そしたら服を脱ぎたがったから、ほぼ全裸のような格好で立っていて、「何この状況?」ってちょっと笑ったもんね。服がまとわりつく感じが嫌だったのか、服を脱ぎたがるのもあって、それもけっこう大変だったかな。とりあえずTシャツを脱がして、でも点滴の管がついているからまた戻してみたいな。甘えていたんだよね。翌日の31日(X-1日)は、顔を見ながら、しんどそうだったら点滴のボタンを押して薬を流す量を増やしたり、体勢を変えたりとかそんな感じだったね。(⑥に続く)

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