それが恋でも恋でなくても

はじめて会ったときに、もう好きだと思った。

そういうことはあんまりない。わたしはもともとうたぐり深いうえ、人の見る目のなさが尋常ではないのだった。

第一印象でいいひとかも、好きかも、と思った人の9割は口がうまいだけで中身のないひとだし、このひととは仲良くなれそうにもないな、と思ったひととのちのち意気投合することが多々ある。あんまりにも真逆なもんで、最近は第一印象の良かったひとに対して、きっとわたしとは合わないにちがいない、気を許しすぎないようにしなければ、と歯止めをかける羽目になっている。それくらい、自分の「ビビッとキタ」(古い)に対しての信頼がまるでない。

でもいままでに3人だけ、第一印象通りだったことがある。出会って即、あ、好き、と思って、話してみてやっぱり好き、となったことが。
そのうちのひとりは、おたく活動をしているなかで知り合った女の子だ。年は6つ下。その子のことは、はじめて会ったときからなんだか好きだと思った。初対面で、2時間くらい電車移動しながらふたりで話していてもぜんぜん(すくなくともわたしは)、気まずくなかった。

彼女は誰といても自分から話し出すことは少ないが、打てば響く。6つ年上のわたしにへんに気をつかうでもなく、焦って話題を探すでもなく、悠揚迫らない感じでただそこにいてくれる。そこが楽なのかもしれない。彼女に対しては、わたしはすらすらと質問が口を突いて出るし、話題を探すことを負担に感じない。万年コミュ障の名をほしいままにしているわたしだが、自分が好きな相手になら、話題を探すことをほとんど苦痛を感じないのだった。

好き、というのを、わたしはどこで決めているんだろう。

嫌い、はすぐわかる。わたしやわたしの好きなものを馬鹿にする、横柄、自分がやるべきことを他人に押し付ける、言って(やって)いいことと悪いことの区別がつかない、約束を破る、遅刻。

翻って、好き、というのはなかなか定義がしづらい。いちおう、言葉が通じる人が好き、と認識してはいるが、たとえ持っている語彙や話題がかみ合わなくても、ときどきすごく嫌なことをされても、好きなひとのことは好きだ。

こういうとき、江國さんの「東京タワー」に出てくる透が、友人の耕二に対して感じていたことを思いだす。
「透は、耕二を無条件に好きだった。それは、耕二の欠点や◯◯(忘れてしまった。〈欠点〉に類するネガティブな単語)とは関係のないことだ。」
そのとおり、と膝を打つよりほかない。わたしも好きなひとたちにはそう思っている。一部が抜けているが。

#日記 #エッセイ #好き

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