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『泣く大人』になれたことを寿げ

身体と精神が繋がっているというのはほんとうのことで、実際、身体の調子が悪いときに元気よく振る舞うというのは中々骨が折れることなのだった。逆も然りで、心の調子がすぐれないときに外に出て運動するなんてことは至難の業だ。

ともかくいまのわたしの場合、人前に出て話す仕事や知らない人との打ち合わせなどのときは火事場の馬鹿力で誤魔化せるのだが、それが終わると、プツッと糸が切れたように体調不良が襲ってくる。ただそれも立ち上がれないほどとか運転できないほどではないので、とりあえず会社には来れてしまう。が、頭は絶好調なときの6割くらいしか働いていないので、仕事の効率は悪い。最初はなんとも言えない気持ちになったが、いまは休むよりマシだと言い聞かせている。休むと仕事の進捗はゼロだが、とりあえず会社に来れば(6割の力でも)30くらいは片付く。ゼロよりは30のほうがいいに決まっている。いまは、無理しない。もともとそう優秀なほうじゃないのだ。気力でカバーしていただけで、わたしの記憶力も事務能力もこんなもんだ。今までが、バフが掛かっていたようなものなのだ。

このように肉体的・精神的にへろへろかとおもいきや、突如としてべらぼうな強度の怒りに脳を焼かれるときもある。意味のない言葉を叫びながら有線マウスを引きちぎってモニターに投げつけたい衝動に駆られるような、荒唐無稽な怒りに。

こういうたぐいの意味不明で強い怒りが湧いてくると、自分の理性が強いほうだということがよくわかる。怒りながらも、その怒りを俯瞰で見ている。支配されない。この気の狂いそうなまでの異常な怒りは確実にホルモンバランスの乱れからくるものだな、と頭の隅で考えている。つねに。

夜中に目が覚めて、昼間の失態を思い出しておそろしくかなしくなると、わたしは泣く。声をあげて泣く。今年、31になった。それでも、泣いていいのだ。自分のために泣いていいのだ。
江國香織さんのエッセイに、『泣く大人』と『泣かない子供』というタイトルの2冊がある。大人になって泣けるようになった、と江國さんは『泣く大人』で書いている。泣けない子供だったが、大人になって泣けるようになった、と。自分のために泣くことを、わたしはずっと許容していたい。

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