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第2回「みやこ大人図鑑~十人十色な人生史~」を開催。《 志賀政信さん 》が人生史を語る。

10月29日(日)、志賀政信さんをゲストにお招きし、トークイベント「みやこ大人図鑑~十人十色な人生史~」をみやっこハウスで開催しました。


みやこ大人図鑑とは?

毎月1回、宮古市在住又はゆかりのある大人をゲストにお迎えし、「わたしの人生史」というテーマでトークしていただくイベントです。
様々な価値観、人生や職業選択のあり方に触れることで、生き方について考えることを目的としています。

第2回目のゲストは、志賀政信さん!

1979年宮古市生まれ。宮古高校卒業。専修大学進学と同時に、俳優養成所に入所。就職内定と舞台出演決定が重なり、内定を辞退して俳優の道に進む。体調を崩したことをきっかけに、26歳で帰郷。家業の建設会社で働きながら、消防団や青年会議所に所属。2019年より市民劇の制作に携わる。

住めば宮古
志賀さんのモチベーショングラフ
乳母さん(左)志賀さん(中央)乳母さんの娘さん(右)

――どんなお子さんでしたか?

一人っ子だったので、親にはとても可愛がられました。乳母さんを含め3人家政婦さんがいましたね。
なぜか分かりませんが、お風呂場で一緒に写真を撮りました(笑)
当時、乳母さんがいる家庭は珍しかったと思います。43年くらい前のことですね。

左上の赤い看板には「歩け歩け福島湯まで」という詩が綴られています。
この看板は震災時に流出したそうです。

――役者になろうと思ったのはいつですか?

幼稚園の年長か小学校低学年の頃に、家の近くにあった国際映画館(現トヨタレンタカーの向かいの駐車場部分に映画館があった)の方が「貼ってくれませんか?」と映画のポスターを持ってくることがありました。
ポスターを脱衣所に貼る代わりに、映画の招待券が貰えるんです。

親父は「男はつらいよ」の上映の時だけ一緒に映画館に連れて行ってくれました。
でも、子供が見ても全く面白くないんです(笑)
5/8チップというお菓子が食べられるので一緒に行っていました。

親父は堅い人で、ハードカバーの経済書を読んだりニュースしか見なかったりというイメージで、「8時だよ全員集合」のようなバラエティ番組を毛嫌いするようなタイプでした。

でも「男はつらいよ」の寅さんの時だけはめちゃくちゃ笑うんですよ。
その時、「寅さん凄い」と感動したんです。
「なんでこの人は親父を笑わせられるんだろう?寅さんみたいになりたい…!」
そう思いました。

ひょうきんもので目立つのが好きだった志賀さん(小学校1年生当時)

成長していく段階で、車 寅次郎(くるま とらじろう)という人はこの世には存在せず、渥美 清(あつみ きよし)という俳優が寅さんを演じていることを知りました。
「寅さん凄い」という気持ちが「役者になりたい」に変わっていきましたね。

「役者になりたい」という思いを両親に打ち明けられず、
良い子を演じていたという志賀さん(左)

――宮古高校OBと伺っていますが、高校生時代はどのように過ごしていましたか?

どうやって役者になるのか分かりませんでしたが、とにかく東京に行かなければいけないと考えていました。
どうすれば皆を傷つけずに東京に行けるかを考えた時に「東京の大学に行けばいいんだ」という結論に行きついたんです。

「東京に行って役者になりたい」
という思いを隠し、親には「大学に行って建築士になりたい」と言って、良い子を演じることしか考えていませんでした。

余談ですが、高校1年生の時に広末涼子をテレビで見て「めっちゃ可愛い!」と思ったんです。
「東京で役者になったら広末涼子に会えるのでは?」と考えるようになってモチベーションが上がりましたね(笑)
広末涼子効果です。

――部活の思い出はありますか?

サッカー部だったんですが、高校3年生の時に宮古地区予選で負けちゃったんですよ。
県大会ベスト8を目指して練習していたのに。
当時の宮古高校の部活は全部強くて、地区大会で負けた運動部がサッカー部だけだったんです。

学校に行くのが恥ずかしくて「学校に行きたくない」と不登校になりかけました。結局、学校には行ったんですけどね(笑)

――大学進学後はどのような活動をしていらっしゃったのですか?

大学に入ってから色々な事務所のオーディションを受けましたね。
こういう世界を目指す人に伝えたいんですが、事務所ってオーディションを受けた人を落とさないんです。
とりあえず事務所に入れて、養成所に通わせるんですよ。
それを知らず、次々と「うちでやってみないか?」と誘っていただけるので「俺、いけるんじゃないか?」と思っていました。
養成所に通わせるというのも事務所のビジネスだったんです。

23~24歳当時の志賀さん
日本タレント名鑑に記載されています

有名人が所属している大手事務所の養成所でレッスンを受けている時、「ここにいても良くない。もっと小さい事務所の方があなたを見てくれる」と言ってくれた優しい先生がいました。
その大手事務所ではCMに出ることができてセリフも貰っていましたが、舞台をプロデュース公演している事務所のオーディションを受け、そちらに移りました。

次の舞台に向けた稽古参加者の募集があったのですが、就職活動と丁度バッティングしてしまって。
役者志望であることは親には隠していたので、就活をして内定をいただいた会社の研修にも参加していました。

大学4年生の2月末に事務所から「舞台やるって言ってるのに、出るとも出ないとも言ってこないのは何なんだ」と言われ、舞台の方を選びました

内定をいただいていた会社には辞退の連絡をしなければいけなくて、大学や後輩に迷惑をかけることになると思ったので学生課に相談しました。
学生課の方からは「その会社の玄関から電話をして、御社の前まで来ていますと言って事情を説明すれば大丈夫だから」とアドバイスをいただきました。

内定辞退を伝える日、スーツを着て緊張しながら会社に向かいました。
学生課の方から言われた通り電話をしたら案の定怒られましたが、玄関まで来ていることを伝えたら応接室に通していただけました。

お世話になっていた人事課長さんなど3名に「どこに引き抜かれたのか」など問い詰められましたが、「実は、役者になります」といった瞬間、空気がキーーンと凍って(笑)
怒り狂っていた社員の皆さんの熱がスーッと冷めて、「君のやろうとしていることに協力はできないけど、応援してるね」と背中を押していただきました。

――内定を辞退したことは、ご両親には伝えたのですか?

辞退をした日の夜、親に電話をしました。
最初に伝えたのはお袋で、「役者になる」と伝えたらまた空気がキーーンとなって(笑)
その後親父に代わったので、今まで役者の活動をしていたことを話しました。

「本当は小さい頃から役者になりたくて」とボロボロ涙を流しながら伝えたら、親父が一言「今まで騙していたのか」と。

それを聞いてダーッと涙が溢れました。とても強烈でしたね。
結局、黙認されたという感じでした。

――そして、舞台への道に進んだんですね。

それまでCMやVシネのエキストラなどをやってきましたが、初舞台ではお客さんが目の前にいる状況で演技ができて、カーテンコールを浴びた時に「やりたかったのはこれだったんだ」と感じました。

大河ドラマのエキストラをやりながら年に2~3本舞台ができる事務所で、徐々に主役級の役を務めるようになり、要求されることもどんどん難しくなっていきました。
それでも、カーテンコールを浴びると、苦労もすべて吹っ飛びましたね。

――モチベーショングラフに書いていただいた「24歳のカベ」というのが気になりました。

当時、東京の狛江というところに住んでいて、役者だけでは生活していけないのでバイトもしながらの生活でした。

24歳の誕生日、稽古の帰りにふと「なに、この24歳…」と思ったんです。
定職にも就かず、バイトをしながら役者をやっている自分を振り返った時、こんなに格好悪い24歳があるのかと胸がキューッと苦しくなりました。

夜10時くらいに駅から家まで泣きながら帰りました。
天気が良くて、星が綺麗だったのを覚えています(笑)

一人暮らしのアパートに着いて部屋の電気を点けたら、カーテンに巨大なゴキブリが1匹いて(笑)
ゴキブリはすごく嫌いだけど、「もうひとつの命が待っていてくれたんだ」と癒されました(笑)

そのくらい、自分のダメ人間さにショックを受けていたんです。

――思い描いていた大人像とはかけ離れていたんですね。

そうですね。
でも、いろんな仕事をさせていただけるようになって、新国立劇場にも立たせていただきました。
イタリア人からイタリア語でダメ出しされたけど、何を言われているか分からなかったです(笑)
ネイティブな「マンマミーア(なんてこった!)」を初めて聞きました(笑)

2006年に放送された「功名が辻」という大河ドラマでセリフをもらったのが最後の仕事でした。

――どのような仕事内容だったのでしょうか?

「功名が辻」は戦国時代の話なのですが、ある日、スーツで来るように言われたんです。

武田信玄の騎馬隊が鉄砲で負ける「長篠の戦い」の回で、通販番組のように火縄銃を売る役をしてほしいと。
織田信長が財力に物を言わせ火縄銃を大量に購入したんですが、常識ではありえないことだったので、それを表現したいから火縄銃を安売りする演技をしてくれと言われました。

最初にもらったセリフは3行程度でした。
台本の通りにやったら「もっと好きなことやってみて」と言われ、追加で用意していただいた小道具を使って演技をしたらその映像がそのままオンエアされました。

でも、その頃から体がおかしくなっていたんですね。
部隊の稽古中に体が痺れるようになってきたんです。
病院に行ったら、過換気症候群と診断されました。
緊張が高まった時、息が吐けていなかったんです。
「もし一人の時に症状が出て意識を失ったら死ぬからね」と言われました。

発症することが頻繁になってきて命の危険を感じ、26歳の時に役者を辞めて宮古に帰ってくることを決めました。
人生終わったと思いました。

――帰郷することをご両親には伝えたのですか?

また電話したら、親父から「諦めるのか」と言われました。
「宮古にも劇団があるから、役者はやれるぞ」と励まされたのには感動しました。父親からの愛の一言でしたね。
帰って来た時にはどん底の気分でしたが、家業の建設会社で土まみれになりながら働いて、気を紛らわせていました。

祖父も親父も消防団員だったので、自分も消防団員になることが決まっていました。

既に消防団に入っていた従弟が突然「今から飲み会に行かないか」と誘ってきて、冨士乃屋の2階座敷に上がったら半纏を着た人たちがズラーッと並んでいました。

ほぼ強制的に入団することになりましたが、訓練や夜警をしている時に宮古の大人との新たな出会いもあり、「宮古って面白いところなんだな」とだんだん気持ちが晴れていきました。

居酒屋に行くことが多くなって知ったんですが、宮古の夜って、外を歩いている人は全然いないのに、店に入ると人がたくさんいるんですよ。「宮古って夜も元気な街なんだ」と思いました。

2010年の10月、31歳の時に結婚したんですが、それまでは結婚している自分を想像できていませんでした。
責任を感じて、今までとは違うモチベーションが上がりました。

第1子を授かったのが分かった時に、東日本大震災を経験しました。
訳が分からず無の状態でしたが、頑張らなければという気持ちが芽生えました。

――志賀さんは青年会議所にも所属されていましたね。

消防団は奉仕活動なんですが、青年会議所は貢献活動なんですよね。
2017年の第2回みやっこタウンでは実行委員長を務めました。

志賀さんは、こどものまち「みやっこタウン」で使用されている
疑似通貨「べスカ」の名づけ親です。
小学1年生の頃の写真と同じポーズで映っています。(右上)

2019年の秋まつりでは実行委員長をやらせてもらいました。
準備している時はキツイなと思うんですが、終わってみると、やってよかったなと感じることの繰り返しでした。

――そして、再び舞台に立ったんですよね。

青年会議所の理事長の任期が終わってから、2020年2月、「鍬ヶ崎エレジー」という第2回目のみやこ市民劇に出演しました。
宮古港開戦150周年記念の年ですね。

土方歳三を演じた志賀さん

2022年5月には第3回みやこ市民劇「さらば義経」源頼朝を演じました。
衣装は全部手作りです。大道具・小道具の皆さんに支えられて舞台をやっています。

さらば義経
義経役の伊藤さん(右)とのツーショット

これからも、みやこ市民劇は2年に1回公演を行う予定です。
皆さん、仕事をしながら楽しくやっています。

――高校生の頃、宮古はどうでしたか?(高校生からの質問)

全然興味がなかった(笑)
東京に行くことしか考えていなかったので、地域について全く興味がありませんでした。
いなくなって帰ってこないと思っていた。
面白いところがあるかどうかも考えたことがありませんでした。
高校生の時に遊びに行くとすれば、DORAや玉木屋(キャトル跡地)でしたね。

――僕は話すのが苦手なのですが、役者の方は話し上手なイメージがあります。声のかけ方などを教えて欲しいです。(高校生からの質問)

自分の感覚ですが、役者は根暗で口下手な人が多いと思います。
自分を変えたくて役者を始めた人も何人か知っているし、カメラの前や舞台の上で違う人間になれるからやってるんだと思う。
自分のまま舞台に上がってはいけないので、自分じゃなくなれるっていうのを喜んでいるんじゃないかな。
自分も今、「面白いことを言うためにはどうしたらいいか」とテンションを考えて演じているかもしれないです。
ぜひ市民劇に出て、違う人間になる喜びを感じてみてください(笑)

――自分は後悔ばかりで、成功より後悔の方が大きいんですが、後悔ってどうしたらいいんでしょうか?特に対人関係で感じます。(高校生からの質問)

今は辛いと思うけど、もっともっと後悔してもいいんじゃないかな。
すげぇへこんでいいと思うよ。
「あの時自分がこうしていれば」と思うことの連続だと思うんですよ。
でも、時間が経っちゃうとなんてことないんですよ。
へこんでおかないと、その時の感覚を思い出せなくなっちゃうよ。
どうせ回復していくから、そのことについて深く考えるといいよ。
俺は、そういう悩みを持つ人ってすごく良いと思うよ。
大丈夫大丈夫。

――最後に、高校生に向けてメッセージをお願いします。

目標や夢を持てというのは違うと思っていて、思うがままに生きていて良いと思います。

一番分かって欲しいのは、後悔しないようにやれという人もいるけど、後悔は絶対します
やりたいことがあるのであればそれに越したことはないけれど、やりたいことがないことを悪いと思わなくていいんじゃないかな。
自分みたいに、中高生の時に何もなかったという人がいてもいいと思います。

手に取ったものが、いつかしっくりくる時があるはずです。気張らずに、興味があるものを拾ってみてください。

高校生・参加者の感想

・人生史と聞いて重く感じていたけど、図とグラフ、写真などで面白く、真剣に話を聞けた。少し前向きになれた気がする。

・志賀さんのプラス・マイナスの感情が手に取るように分かる講演でした。他人の人生を疑似体験できて面白かったです。

・宮古から出たことのある人の視点は大事だと思う。とても有意義な時間でした。

次回の「みやこ大人図鑑」は11月26日(日)

「みやこ大人図鑑~十人十色な人生史~」は、今後も月1回程度の開催を予定しています。
参加費無料、申し込み不要です。
中高生はもちろん、大人の方も大歓迎!途中参加・途中退室もOKです。
未来の自分を想像する1時間にしてみませんか?
ご参加お待ちしております!

日時
11月26日(日)14:00~15:00

場所
みやっこハウス

ゲスト
菊池 眞悠子 さん

2000年生まれ、宮古市出身で高校1年生の冬にみやっこベースに出会い、世代間交流をテーマに活動した。日本最大級の探究学習の場「全国マイプロジェクトアワード」では優秀賞を受賞し、高校卒業後は岩手県立大学に進学。2022年4月に宮古市にUターン就職し、宮古市社会福祉協議会職員として働いている。

同日、「みやパル~10代の喋り場~」も開催!

11月26日(日)には、みやっこハウスで「みやパル~10代の喋り場~」も開催します。
時間は13:00~14:00で、場所は同じくみやっこハウスです。(「みやこ大人図鑑」の前の時間なのでご注意)

3回目となるイベントで、10代が興味のある話題について語り合う1時間です。
(第2回目の様子はこちら
「ちゃんとしたことを言わなければいけない」ということは全くありません。
あなたが感じた、そのままの気持ちを教えてください。

zoomでもご参加いただけます。

zoomでもご参加いただけますので、以下のメールアドレスにご連絡ください。URLをお送りします。
※「zoom希望」とご連絡ください。お名前とご年齢もお願いします。

s.sakamoto@miyakkobase.com

みやっこハウスに来るのが難しい方、みやっこベースOBOGの方、ご連絡お待ちしております😊

11月26日(日)
13:00~「みやパル~10代の喋り場~」
14:00~「みやこ大人図鑑~十人十色な人生史~」

ご参加、お待ちしております!

ゆる~く語り合いましょう✨