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アスリートと自己責任

オリンピックの開催まで、残すところあとわずかとなってきました。
一番の懸念点は開催されるかどうか?ということです。
この未曾有の事態により、今までのオリンピック選考とは大きく違うものとなってしまいました。当然、オリンピック自体も大きく変わるでしょう。

現時点でも、中止or開催でさまざまな議論がなされています。
保安、健康、経済、政治、様々な立場から述べられる意見はどれも尊重されるべきものであることは明白です。

今回はその中でも、アスリートの立場をとって意見を述べたいと思います。
そもそも僕はオリンピックの正メンバーではなく、メンバーに何かあった際の控えの控え選手です。
オリンピック選手でもない人間がオリンピックの選手を語るなという声が上がりそうですが、同じオリンピックを目指してきた者としてご容赦いただけると幸いです。

メディアではアスリートの発言が取り上げられ、それに対し開催賛成派の方や反対派の方のリアクションが多く寄せられています。
しかし、アスリートの立場ではオリンピックを中止することも開催することも決めることはできません。運営する立場にはないのです。
アスリートはオリンピックの主役として扱われる半面、オリンピックの窓口として扱われる状況も生じてしまうのです。

だからこそ、今回のオリンピックにおいてアスリートの立場と責任を明白にしておかなければ、出場する選手は代表として機能することが難しくなるのではないでしょうか?

最近では、池江璃花子選手がSNS上でオリンピックの辞退を求められる事態が発生してしまいました。
池江選手はとても冷静かつ大人な対応をされていらっしゃいましたが、これが全アスリートに起こりうる可能性があると考えると恐ろしいです。
そもそも窓口としての機能を持たないアスリートが、対応を一つ間違えるだけでも中止派の方々vsアスリートという構図になりかねないことも容易に想像がつきます。それは誰も望みません。

僕自身、リオオリンピック終了後から、今に至るまでの4年+1年間を競技に捧げてきました。当然多くのアスリートがそうです。
オリンピックを自分の人生の中心に据え、そのために練習や生活をしてきたアスリートですので、オリンピックが中止されてしまうことに大きな喪失感を受けてしまうのはもちろん、生活の軸が消えてしまうことにより自身の人生そのものを揺るがしかねません。

しかし、全てのアスリートは自分の夢が社会全体の犠牲の上に成り立つことを望みません。社会の敵になってまで成し遂げなければならない夢などアスリートには存在しないからです。
だからこそ、これからオリンピックの窓口として認識されてしまう恐れのある参加選手には状況を理解し自分の立場を明確にした上で臨むことが重要になるのではないのかと思います。

IOCと組織委員会はオリンピックを安全に行うために「プレイブック」を発表しました。これは感染からステークホルダーを守る旨のガイドラインです。その中で、選手の参加は「自己責任」としています。
もちろん、これは感染そのものに対して向けられた文言であると考えられますが、この言葉の解釈によっては、感染拡大の一助をアスリートが担ってしまった際(過失があろうともなかろうとも)、自分から望んできたのだからIOCは関知するところではない。となってしまう可能性や、日本において、池江選手の様なSNS問題がオリンピック期間中に発生したとしても自己責任になってしまうことも考えられます。つまり、オリンピックに出場する選手は今まで以上に責任を認識した上で競技に専念する必要があるのです。

さて、本題に戻りましょう。
今回この記事によって伝えたかったことは、その中でも戦い続け結果を出さなければならないアスリートに対して尊敬の念を抱くとともに「自己責任」という文言がアスリートにとって不利益になるかもしれないという可能性を指摘させていただきました。
責任の行方をアスリートと競技団体、もしくはIOCとの間で争うようになることから確実に選手を守らなければならないのです。
この局面において「自己責任」の文言を覆すことは現実的ではありません。
しかし、そのリスクを今一度アスリートが再認識する工夫があってもいいのではないのかと思い筆をとった次第です。

なお、この記事はオリンピックの開催、中止、もしくはその中立のどの立場にも立たずアスリートの立場でのみで書いていることをご理解ください。
全アスリートがオリンピックの窓口ではなく主役になることを願っています。

皆さんに支えていただくと共に競技に対して僕が抱いているドキドキやワクワクを共有したいと考えています。一緒に戦いましょう!三宅 諒