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VUENOS , Glad , Neoが生み出したもの

「50万杯分のフリードリンクが生んだ交流と、DTMへの時代変革にフィットした施設」

冒頭、こんな言葉ですが、本日、最終日を迎える3店舗の閉店に寄せて、自分なりの回想記(2000年代のLIVE TIME寄り)ですが、渋谷のカルチャーの歴史の一角を、文字に残したいと思います。

VUENOSがOPENした1998年は、
・ライブハウスだったら、「新宿LOFT」「下北沢SHELTER」「渋谷La.mama」が音楽的に質の高いアーティストが揃っているお店
・クラブだったら、「西麻布YELLOW」「青山マニアックラブ」「渋谷HARLEM」が招聘する外タレのバリュー、出入りするクリエーターの質が高いお店。
という感じだったと思います。

■3店舗の歴史
1998年3月、VUENOSは「サルサバー」としてOPENしました。表の看板には料理のメニューが掲示されていた様子。独特のらせん階段を下りた地下の空間で、サルサ料理にテキーラ等のカクテルを提供して、ステージでサルサダンスを披露するといういわゆるエンターテインメントレストランでした。
創業者の意向を組んだコンセプトでありましたが、中々軌道に乗らず、そんな中、club asia / HARLEMであの通りに根付いてきたHOP HOPのクラブイベントをMOさんが誘致して、その後20年続く、「HIP HOPのVUENOS」が構築されていったのであります。
2000年ごろまでは、CLUB営業が軸で、週末の日中は、いわゆる「トランスのダンパ」が行われてました。現在、テレビ朝日/AbemaTVで放送開始している浜崎あゆみの「M」に描かれている渋谷ギャルのダンスイベントであります。具体的には、関東圏の各サークル毎に主催され、ただただ2時間程度パラパラを踊るという内容。そして、年度替わりには、卒業する先輩から次期リーダーへの引継ぎ式が行われ、最後はみんなで泣きながらパラパラを踊るという、良く分からない絵面であった事は今でも鮮明に覚えています。
2000年以降は、メジャーシーンで活躍していた「Dragon Ash」や「RIZE」の影響をうけて、いわゆる「ミクスチャー」というBANDスタイルの数が増えてきました。当時は、渋谷CYCLONEや、GIGANTICにて活動していたが、DJがメンバーにいる構成や、そもそもHIPHOPカルチャーとのシナジーがあるジャンルという事よって、VUENOSにて徐々に主要面子が集まる様になってきました。「LUV GRAFFITI」というコンピレーションアルバムとの企画も功を相し、90年代のライブハウスシーンとは異なる、クラブ寄りなBANDカルチャーというものが名実ともに形成された10年であったという側面もあったと思います。
その後は、次項でも触れますが、「DTMを手法とするシンガーの聖地」「ダンスVoユニットの聖地」へと形を変え、2010年以降は、アイドルの活動も取り入れながらの店舗スタイルとなったという印象です。


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「Glad」は、2001年4月、「clubasia P」という名称して誕生。当時はビルの4Fにレコーディングスタジオと映像編集・配信スタジオも併設しており、Pのミキサー卓の音源と、STAGEを撮影した映像のデータはそのまま光ケーブルで、4Fのスタジオに繋がっておりました。実験的に、「clubasia TV」という番組の制作をこのスタイルで実行していたが、コンテンツ不足と編集側の力不足もあり、早々に打ち止めという企画となってしまった。20年後の今と比較してみると、Abema TVが制作しているカルチャー番組に非常に近い所があり、それ故、当初はトークライブや、サブカルチャー系イベントが多かったが、徐々に淘汰され、「LIVE TIME」はアコースティックやシンガーイベント「CLUB TIME」は、VUENOSと連動する形でのショーケースステージとして機能していった。
OPEN時より、「Pってasiaの駐車場?」的な突っ込みもあり、社内で店名変更の意見は常にあり、2010年頃、名称を「Glad」に変更し、今ではすっかり「Glad」で定着したが、一応、その黒歴史も触れておきます(笑)。2010年以降は、アイドルのソロイベントやバースデーイベント等に対して、そのすり鉢状の会場使用が需要と一致して、評判を得ていた様子でありました。


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Neoに関しては、2002年11月にOPEN。当初は、「酸素バーが楽しめる隠れ家的バー」というコンセプトであり、イベントは行わず、フラットな飲食店としての営業スタイルでありました。
clubasiaやVUENOSでの遊び方を卒業した30代以上を狙ったコンセプトの店舗設計であったが、そもそも、30代越えたら渋谷で遊ばなくとなる。という根底を読み違えたようで(恵比寿や、六本木に出店していればまた結果は違ったのかも。。。)こちらも早々に営業スタイルを変える事となる。
2004年5月に発売された倖田來未の「キューティーハニー」のMVの撮影で使用された事をきっかけに、何故か一時期、「アー写の撮影はNEOで」という需要がファーバーして、日々、誰かしらの撮影を合間にしていた時代があった事を思い出す。
どちからというと、主要店舗のラウンジ・VIPフロア的な使用にて、活路を見出し、風営法摘発前の3年ほどのCLUB TIMEにおけるVUENOS・Glad・Neoの3店舗連動は、その後のフェスの楽しみ方の根源ではなかったのか?と思われるくらい画期的な発明であり、お店の遊び方に変化をもたらした動きであった思っています。実際、そのタイミングから、渋谷の店舗を連動させたサーキットイベントは徐々に開拓され、今では、著名なお笑い芸人が主催で行う程、市民権を得ている。
余談ではあるが、2006年頃、エミネムが来日した際、深夜に本人が遊び来て、Neoで過ごしていたが、その存在が本物だったのが、フェイクだったのかは、今となっては定かではない。。。


■IT出身の創業者
3店舗を経営していたカルチャー・オブ・エイジアの創業者である故大原茂桂氏はIT畑出身のベンチャービジネス経営者でありました。某大手IT企業にてスーパーコンピューターのトップ営業マンであり、エンターテインメントというよりは、ITによって世の中に対して、新しいビジョンを打ち出したい。という野望が強い方であった印象です。

「clubasia P」にてトークイベントを開催し、それをそのままインターネットで配信する事業。→後の YOU TUBE配信スタジオに近いビジネスモデル。

「UNARYU.com」というアーティストの登録サイトを作り、インディーズのアーティストがそのサイトから自身の音源をストリーミング配信・及び課金が出来るシステムの構築。→後のMy space、Sound Cloud、に繋がるビジネススキーム。

という具体例であります。
創業からの25年のタームで見ると、スマートフォンの普及による携帯端末での音楽の視聴、YOU TUBEというプラットフォームの誕生による映像需要、個人レベルでの映像発信によるコンテンツ提供。という、音楽の聴き方・コンテンツの発信の仕方、映像の需要増加。等、時代のIT化へのシフトを予測し、そのビジネススキームの構築を目指していた創業者であった事は、今となって気づかされる驚きであります。大原氏と関係のあった人達は、皆、口を揃えて「あの人は時代が早すぎた」と発言します。確かにそうだと思いますが、個人的には、大原氏が、当時の日本の音楽シーンに全く繋がりの無かった人だったからこそ、渋谷のあの場所に当時異質な施設を創造し、当時の日本の若者に対して、活動の場を提供してくれたという結果を残したのである。とも感じております。

■「オケだしシンガー」とDTMの発展について
少し話を現場に戻してみましょう。2005年頃より、VUENOSの「LIVE TIME」に「オケだしシンガー」という名称が生まれ始めてた記憶があります。当時は、DTMのソフトは発売されており、音源制作において、その存在は広まってきていましたが、まだまだライブシーンにおいては、「演奏はBANDスタイルで行える事がクオリティー的に大事な事」「最低でもバックDJをつけて、トラックを流す事が礼儀」といった風潮であり、トラックデータをCDでPAに渡し、ソロでSTAGEで歌唱する事は、「私は素人です!」というアマチュア感を丸出しにするような空気でありました。しかし、時代は変化するというもので、その様な中から、「Def Tech」が一気にアルバム200万枚の大ヒット~の紅白出場。SONY レーベルも新人開発イベントをVUENOSで定期開催し、「オケだし」で歌っていた当時、三重県の高校生だった西野カナのデビューが決定。時流も携帯での「着メロ」「着うた」がサービスとして出始め、Aメロ・Bメロ・サビと分けて音源が配信される事に対して、ほとんどのアーティストが拒絶反応を示した中、西野カナやGReeeeNがその先駆けとなり、あれよあれよとトップチャートに上り詰めたのである。こうなるとライブシーンにおいても、価値観は変わり、以前は重いバンド機材を持参してくるのが当たり前だったライブも、家で作成した音源データをMac Bookにて持参して、もしくは、CDに焼いて、PAに託すという形がスタンダートとなっていった。(個人的にはこの変化により、地方のインストアライブの需要も一気に増えて、32チャンネルミキサー+ウーハーも完備しているライブハウスの音響の価値と、8チャンネルミキサー+JBLのスタンドスピーカーのみのモールライブの差が素人的には無くなってしまった悲しさはありますが。。。)
今や、メタルBANDのドラマーが発するバスドラムの音源クオリティー・音圧とEDMのDJが保有するバスドラムの音源データにほとんど差が無くなってきている。あの時、「素人イベント」と呼ばれて馬鹿にされていた「オケだしシンガーイベント」が今や主流となっっている事は、当時、音楽業界の本流の人達からは、「二流のやる事」的な視線を受けながらも、VUENOS,Glad,Neoは、若者が自由に表現できるステージであった事の証明ではなかったかと思っています。

■忘れてはいけないDANCEイベントの要素
そう、忘れてはいけないのがこの項目ではないかと思っています。
あの通りが、クラブミュージックのメインストリートであると共に、ストリートダンサーにとってもメインストリートであったので、もちろん、深夜のCLUBイベントにて、メジャーアーティストのコレオグラファー/バックダンサーを務めていたダンサー達が、日々、クオリティの高いダンスショーケースを披露していたという頂点があってこそではありますが、それを見ていた当時のティーンネージャー達がダンスイベントを頻繁にVUENOS,Glad,Neoで開催していた時代でもありました。
そこには、ゲストシンガーとして、メジャーアーティストが出演していたり、インディーズのシンガー達も少しずつそのコミュニティーに馴染んでいく事となります。
時にEXILEが日本の音楽シーンを登り詰めていたあの時に、渋谷のVUENOSでは、次世代のシンガーとダンサーがお互い同じイベントで切磋琢磨し、交流を始めていたという訳です。あの環境からその後、ダンスVoユニットとしてデビューしたグループがどれだけ居ただろうか?
自分の感覚的には、2005~8年頃は、メジャーレーベルのA&Rの人はVUENOSのイベントに2回くらい足を運べば、デビューレベルのアーティストを見つけられてたんじゃないか?思う位、確率論の高い現場であったと思う。(俺もあの時、そういった斡旋の商売しておけば良かったな。。。)
今では当たり前になった、ダンスVoユニットという設定も、こういった現場での生の交流が果たした役割は非常に大きかったと思われます。

■「LIVE TIME」「CLUB TIME」の2毛作が生んだ交流
そうなると詰まることろは、3店舗の一番の功績は、「LIVE TIME」「CLUB TIME」の2毛作が生んだ交流ではないかという所に行きついてきます。
2004年のJAY-ZとLINKIN PARKとのコラボレーション「Collision Course」、2005年のEXILEとGLAYがコラボレーションした「SCREAM」の様に、90年代はライブハウスにおけるROCKという文化とCLUBにおけるHIPHOPという文化は別の物であり、混じる事はなかった。しかしながら、あのビルの3店舗が行った数々のイベント、そして、店長・イベントオーガナイザー・アーティストが呼び込んだフリーゲストの数、更には、あのカウンターから提供されたフリードリンクの杯数

(勝手な計算ですが、
3店舗の平均営業年数は20年=7,300日×稼働率8割=5,840日営業。
VUENOSは、LIVE TIMEは1イベント辺り10杯=58,400杯、クラブイベントは1イベント辺り50杯=292,000杯で合計350,400杯。
Glad,Neoでの提供も感覚値で合算すると、3店舗で延べ50万杯は提供してきたのではないか?という仮説であります。
売価500円で計算すると2億5,000万円!!(原価を1杯70円で計算すると、原価計算3,500万円。今回のクラウドファンディングの金額とニアリー)
素晴らしい!今回のクラウドファンディングは、お店が今まで奢ってきた金額をちゃんと支払ってもらったって事ね!
皆さん感覚的に、VUENOS,Glad,Neoで奢ってもらったお酒の分は協力しよう!というラインと合致したのではないか?という雑な分析!!)

によって、もたらされたアーティスト同士の交流は、日本の音楽シーン・ダンスシーンの礎として役割を果たしていたと思っています。

今や、ROCK FESTIVALのヘッドライナーにEDMのDJが選ばれても違和感のない時代。
作曲家のCo-Writeにおいても、BAND畑出身の人と、CLUBミュージック出身の人が自然とお互いの良さを化学反応させて、一曲を作り上げる時代。
サブスクリプションサービスによって、10代の子達は、音楽をジャンルレスに聴く世代が生まれてきています。もう、垣根はないじゃないですか。

1998年当時は、異質な雰囲気で営業をスタートしたVUENOS,Glad,Neoは、22年3ヶ月の時を重ねて、音楽がジャンルレスになり、DTMの音源制作が主流となる今の時代の礎となる出会いと交流を生み出し続け、ITリテラシーにおいて、劇的な変化を遂げた世の中としっかりと並走していた、時代感覚に優れたハコだったのではないかと思います。

                    2020年5月31日 三宅和也  

       (2001~2010年在籍の元カルチャー・オブ・エイジア社員)

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