スポーツ奨励賞_中3_

陸上競技との出会い 〜中学生①〜

陸上競技の本質は「競技」

人と争い順位がつくため、より速くゴールにたどり着くために一生懸命トレーニングするものが陸上競技だと思います。議論の余地があるかもしれませんが、「競技」の本質はここから大きく離れるということはないでしょう。

僕にとっても走ることはやはり「競技」であることが長い間命題でした。今はちょっと変わってきているかな。今の自分にとって走ることは「自己表現」。走っている時が自分らしい瞬間だと思います。そして、純粋に走ることを楽しむ「娯楽」であり、人と人がつながる「コミュニティ」にもなってます。様々な顔を持ち、そんな中でやっぱり記録にこだわる「競技」をやりたいと思う自分もいるので、いい意味でぐちゃぐちゃ。今はそれでいいと思っています。

■「かけっこ」として始まった中学時代

僕の陸上競技人生のスタートとなった中学生時代も最初は「競技」ではありませんでした。速く走りたいという想いがモチベーションの一部ではあったものの、全てではなかったです。そもそも陸上競技とは無縁だった少年が楽しそうに走る先輩たちの姿を見て部活に入ったという動機なので、最初から競技色が強かったわけではなく、当然ながらかけっこの延長でした。ただ、それはそれですごく良くて、練習で勝った負けたでガヤガヤ盛り上がる、朝練っていいらしいよと聞き何となく始めてみる、競技につながるようなことを強制ではない形でスタートすることができ、今振り返っても楽しい思い出ばかりでした。

当時、僕が通った中学校には名物合宿があって、夏が近づくと先輩がザワつき始めていました。名物合宿の「名物練習」が超長距離走。バスに延々と乗り、ポトンと落とされたところから自力で中学校まで帰ってくるという練習でした。真夏の炎天下。持ち物は500円玉ひとつ。計画的に飲み物を買って各自給水してくださいというなかなか手荒な練習でした。途中に先生が給水ポイントを作ってくれるというような時代ではなく、携帯もありません。今の時代なら絶対に学校が許してくれないでしょうね(笑)


懐かしくなって距離を調べてみたら41kmありました。先輩たちもやってきた合宿だから誰でもできる!みたいな感覚だったんですかね。当時は何の疑問も持たずに走ったり歩いたりしながらゴールしました。しかも、宿泊するキャンプ場からお風呂に行くまでは山を二つ越えなければならず、筋肉痛を我慢しながら山道を歩きました。翌朝は湧き水を目指してひたすら山登り。誰も文句も言わずこなしていたので、毎年恒例という魔法が感覚を麻痺させているのかな、、、いやぁ、オソロシイ。ハチャメチャでしたが、今振り返っても鮮明に思い出せるくらい印象深かったです。ちなみに、500円を大事に大事に使って、ゴール間近の駄菓子屋でかき氷を買うために残しておきました。この背徳感がまたよかった(笑)

■「競技」になる

練習は今のような科学的なものでも何でもなくて、経験則によるものがとても大きかったです。僕の中学校は毎年全国大会にでる先輩がいたようで、先生も勝つコツ、速くなるコツを知っていました。(今で言うトレーニング理論ではなくコツというところがミソですね)

一年練習に耐えれば自然と力はついてきます。中学二年生の県大会で二番になってから僕の陸上競技人生がカタカタと動き始めました。かけっこから競技へ。周りからの目もかわり、一丁前に陸上競技選手になっていったと思います。石川県の強化指定選手になり北海道や長野といった合宿のメッカに連れていってもらいました。周りの環境には本当に恵まれて、どんなに競技色が強くなっても根本的なかけっこ感は変わらず、キツイ練習も楽しかった記憶ばかりでした。順調に力がついていく中で次第に目標がハッキリしてきて、仲間とともに全国駅伝に出たい!というのがみんなの中での共通目標でした。目標が高くてハッキリしてたほうが頑張れる。毎日の練習は本当にハードだったけど、笑顔の絶えない仲間のおかげで乗り越えてこれたと思っています。

そして、駅伝当日。緊張感漂う中でスタートしました。勝てると思って臨んだレース、でもなかなか前に出られないもどかしいレースでした。石川県のトップ選手と直接ぶつかることを避け、僕は2区にエントリー。先生の構想は僕のところでトップに立つというものだったのですが、走れど走れど縮まらない微妙な距離が遠く、2位で襷リレー。その差が本当に大きかったです。

アンカーは当時陸上部のキャプテンをしていた先輩で、僕にとっては圧倒的な先輩でした。なんでしょうね、キラキラしすぎていて、タイムで勝ててもその人そのものには勝てないようなオーラがあり、こんなに頼れる人はいないというくらい頼もしかったです。アンカーに渡った時点でチームは3位。それでも、なんとかしてくれる!という期待感を持ってしまう先輩だったので、最後まで優勝することを諦めていませんでした。ただ、差が大きかったです。石川県中学校長距離走継走大会3位。「競技」として結果にこだわり、そのために努力してきた結果は苦いものでした。

ゴールした後にアンカーの先輩が目を真っ赤に腫らして僕のところに来ました。絶対に泣かない先輩だと思っていたのに、この涙はズルい。

「いやー、ほんと悔しいな。くやしい、、、」
「コータ、来年は絶対優勝しろよ」

泣き虫コータさんももちろんもらい泣き。でも、先輩は泣きながらも笑顔を絶やさなかったです。前の年はチームのエースで一区にエントリーしていたのに、直前の風邪をこじらせて入院。そんな経験があったからこそ、走れることの喜びを噛み締めていたのかもしれません。駅伝にかける想いが強くなった瞬間でした。

長くなりそうなので、つづく。

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