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素材に寄りかからない

過ぎ去ったびぶりお文学賞の話に拘泥して申し訳ない限りではありますが、今回の正賞に選出されたのは二藤さんという方の「うたたね」という作品だ。

時の流れの残酷さは、誰もが日々を生きるうえで感じるであろうことだ。もしもそれを乗り越えうる何かが作品を通して浮かび上がることがあるのであれば、それは多くの読み手にとって希望となる可能性を秘めている。

異なる時間が交差するところから、普遍的ななにかが姿をあらわすのかもしれない。

暮らしに追われれば追われるほど、見えなくなるものが恐らくある。そこに注意深く目を凝らせば、時に押し流されるままの身体や生命の鎖から解放されるための光は、ひとびとにさしてくるのだろうか。

そのような希望について考えさせられる詩だ。身体という牢獄、時間という檻から解放されることがあり得るのか、という問いは、人類の普遍的なテーマである。

話は逸れるようで逸れないのだか、むかしある文学賞の選考に関して、わたしが関与して選出された作品に対し「素材に寄りかかった作品を選んでしまっている」という趣旨の指摘を受けたことがある。指摘した方の評価基準は明確でぶれがなく、わたしはいたらなさを痛感した。

病を受容し生を見つめることの困難さに触れた作品だったが、その指摘を受けて読み直すと確かに叙事的でありながら感傷的な側面を残し、作品としての洗練という観点では物足りなさがあったように思えた。

つまり病に直面した事実、創作の題材としては第一級の「素材」を拠り所にしていたのだ。素材に独自性があれば、そこに淡い感傷を添えただけでもある程度の読み応えがでてしまうことがある。

一介の読み手として絶対評価で作品を高く評価するのは勝手だが、文学賞の選考となるとそれだけではいけない。逃れられない相対評価のなかで、その年の他の応募作の中に真に見いだすべき詩があったのではないか。その後、いつまでも詰問され続けることになる。

だからそれ以降、病など特異な境遇、生における独自の事実に根差した「素材」そのものが魅力的な作品に出合ったとき、いったん立ち止まる(引きで見つめ直してみる)ようにしている。

今回の「うたたね」は、まさにその過程をふんだうえで、わたしがこれらの作品群に魅せられた背景に、普遍的な問いに迫る力強さが備わっているからだろうと考えるにいたった。

応募作と闘うと神経が昂るので、数カ月ぐらい冷静になるのが難しい(だからわたしの講評はいつも中二病まるだしである)のだが、そのなかで判断を派手に誤ることのないよう、できる限り心掛けているのだ。未熟な書き手なりに、いちおう精一杯頑張っているのだ。

ちなみに、びぶりお文学賞の作品集は、琉球大学附属図書館のサイトからダウンロードできる。第17回が今回である。「うたたね」や他の入選作を読むことができるし、わたしの中二病まるだしの講評ももれなくついてくる。

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