見出し画像

イエローバンブーの南さん②

(昨日の投稿からの続きです)
沖縄の高校教師、與座さんの協力により
救出してくれた船が沖縄水産高校の実習船
だったこと、
その船の船長が宮城さんだったこと
を突き止めました。
 
その後、沖縄で宮城船長と再会することが
できました。
宮城船長もその時のことを忘れることは
なかったそうです。
というのも、難民が乗っていた木造船の
予備のプロペラを下船するときに難民の
一人からもらって、それをずっと大事に
家に保管していたとのこと。
 
再会の時には、当時の翔南丸の乗組員も
かけつけてくれたそうです。
そして、
「宮城船長がいなかったら、
ここにいる皆さんが
助けてくれなかったら、
 私はここにいませんでした。
 ありがとうございます。」
と涙ながらにお礼を直接言えたそうです。
 
 
南さんのお店、イエローバンブーで
南さんは涙を浮かべながらその時の
お話をしてくれました。
 
実は遭難しているときも、
大きな船が何隻も遭難している船の前を
通りかかったそうです。
でも、やっかいなことに巻き込まれる
ことをさけるためか、すべての船は無視。
翔南丸だけが助けてくれたとのこと。
あのとき、行きかう船は、
ボートピープルを救助するということは
国際問題にもなるかもしれない
「やっかいな存在」
と受け止め、どの船も無視を貫いていた
とのこと。
 
宮城船長は「救助する」と判断してあと
いろいろ大変なことがあったそうです。
細かいところはわかりませんが、
日本も「問題を持ち込むな」という姿勢で
「救助するな」ということ
だったらしいのです。
そこを宮城船長は自身の判断で救助を決行。
その後、日本政府も動いてくれて
フィリピンに寄港して、南さんたち一行は
無事に出国が完了したということ。
 
 
あの時に、宮城船長も
同じ判断で無視していたら・・・
いや、そう判断して後に、
日本政府の圧力に負けて、
遭難船を無視していたら・・・
 
南さんは今この時間を
生きていることができなかった。
(その時にたまたまお店にいた)
娘さんも生まれてくることがなかった
と話してくれました。

南さん親子と


 
南さんは僕の苗字が同じ「宮城」で
あることに感動してくれて、
「親戚ですか?」
と聞いてきましたが、
親戚の中に船長がいるということも
聞いたことがないので
「親戚ではありません」
とちゃんとお答えしました。
(スラムダンクの宮城リョータは親戚と言い張っているのですが…)
 
 
おいしいベトナム料理を食べながら
南さんから直接このお話を聞けて、
救助してくれた宮城船長が同じ
うちなーんちゅ(沖縄の人)であったこと、
おなじ「宮城」であることに
とても誇りを感じた東京での夜でした。
 
 
今日もお付き合いいただきありがとうございます。
今週もがんばっていきましょう♪
月曜日だけど、金陽でした(^^
 
【沖縄の営業マン宮城の日々感じていることブログ】
(ブログ連続投稿439日目)2023.10.2
 
(※あくまでも宮城の個人的な感想、意見です。あしからずm(__)m)
※南さんに承諾を得て写真を掲載させてもらっています

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?