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イエローバンブーの南さん①

先日、東京に出張がありました。
その時にどうしても行ってみたいお店があり
会社の先輩にお願いして
連れて行ってもらいました。
そのお店は東京にある
イエローバンブーというベトナム料理屋さん。
このお店のオーナー南さんはベトナム出身。
南さんの記事を読んで、一度行ってみたい
と思っていたお店です。
 
南さんはベトナム戦争が泥沼化していた
1969年、南ベトナムのサイゴン
(今のホーチミン)で生まれました。
長い戦いの末、敗れたアメリカを支援
していた南ベトナムの人たちの多くが迫害
され、国外に脱出しようという動きが
活発化していたのです。
いわゆる「ボートピープル」です。
当時13歳だった南さんら105名の難民は
木造船に乗り込み、命がけで国を出ましたが
食料はすぐに底をつき、燃料もあとわずかに
生死をさまよっていたその時、南さんたちの
目に光が見えました。
その光は「翔南丸」。
沖縄水産高校の実習船。
当時、県の海事職員だった宮城さんが船長を
つとめていました。
宮城さんは105名全員の救助を決断。
受け入れることで、船に搭載できる75名の
倍以上に膨らんでしまうという
問題もありましたが、
「難民だからといって、それを振り切って
(船に)戻してって、まず戻れって言っても
 誰も戻らないだろうし、人道上、これは
 問題だよね。救助しないで帰るというのは」
との思い。
しかし、日本政府は過剰に外交上の問題に
発展することを恐れて受け入れないように
強く言ってきたとのこと。
それでも宮城船長は受け入れます。
そして政府間交渉でフィリピンでの
受け入れが決まり、実習船はマニラに入港
しました。
南さんはその後、日本に移され、長崎に
あった難民収容施設で生活を続け、
1994年に日本国籍を取得。
そして2010年にベトナム料理店を
オープンしたのです。
相当な苦労の上につかんだ成功。
しかし、海で命を救われた出来事が、
頭から消えることはなかったとのこと。
「船長は今でも生きているかなって
心配してたんです。もしかしたら
会うことは出来ないかもしれない。
『ありがとう』とお礼が言いたい。
でも本人に直接言うことができないかも
しれない。それが不安で心配でした」
恩人を探し続けていた南さんでしたが、
覚えていたのは「SHONANMARU」
というローマ字のみ。
捜索は困難を極めました。
そんなとき、東京出張の際、偶然南さんの
お店に来られた沖縄県内の高校で先生を
している與座宏章さん。
南さんとの何気ない会話の中で、沖縄から
来たと話したとき
「南さんの表情がキリッっと変わって
『実は沖縄にいる命の恩人を探している』
 ということを聞きました。
 救出された際のお話を聞いてすごく感動
 しました。うちなーんちゅの一人として
 誇りに感じ、『協力しましょう』という
 言葉が出ました。」
(與座さん談)
それから與座さんは県内の新聞社に協力を
呼びかけ、船が沖縄水産高校の実習船
だったこと、その船の船長が宮城さん
だったことを突き止めました。
 
すみません・・・
長くなったので続きは明日に。
 
 
今日もお付き合いいただきありがとうございます。
よい日曜日をお過ごしください♪
日曜日だけど、金陽でした(^^
 
【沖縄の営業マン宮城の日々感じていることブログ】
(ブログ連続投稿438日目)2023.10.1
 
(※あくまでも宮城の個人的な感想、意見です。あしからずm(__)m)

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