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神様に誇れる生き方

 はじめに。みやびの価値観を綴っています。


必ず、物事には、受け応えが付きまとう。

 

当然、コミュニケーションと呼ばれる、言葉のキャッチボールも含め、日常生活において、誰かが発信し、誰かが受け取るということは、当たり前であり、そこに、繋がりが生まれたり、理解や価値が広がったりする。

 

あえて、価値が広がるという表現で、自らの持っている価値に、焦点を当ててみる。

 

数限りない受け応えの繰り返しの中で、どこに価値を見出し、軽々とその受け応えをこなしてゆけるか?

まずまずの受け応えをこなせる人と、そうじゃない人の違いとは?

器用な人と、不器用な人!?

 

言葉だけが行き来しているわけではない世の中で、

自らの発信しているエネルギーについて、考えてみる。

 

いよいよ、見えない世界の入口に立つ。

人には、沢山のセンサーがあり、そのセンサーを働かせ、日々生活しているハズ。

そのセンサーとは、本能であり、その本能の中でも、最も人間が大事にしているのが、防衛本能となる。

防衛本能がなければ、当然人間は死に至る。

そして、それが備わっているからこそ、治安も保たれてゆく。

 

ところが、その防衛本能、度が過ぎると、大変厄介なものに変身し、防衛とは名ばかりで、人を攻撃してしまう“能力”に、早変わりしてしまう!!

 

これには、数々の痛い目に遭った経験がある私としては、

是非ともこの防衛本能をまっとうなものに切り替え、向かう所敵なし人生を歩んでいただきたいと考える。

 

私が人から向けられた、過度な防衛本能の中で、一二を争う、負担を受け取ったのが、「嫉妬」という防衛本能であった。

 

私の意識、無意識の中に、この私が嫉妬をされるという観念、枠組みが全く無かった。

 

その枠組みが無かった私は、枠外となる嫉妬に、長年苦しめられるという失態!?を味わい続けたのである。

 

みなさんご存知のとおり、嫉妬には二種類あり、

ヤキモチと呼ばれる男女間で行われるものとは、私の場合全くご縁は無く、

そこには、枠組みがあろうが無かろうが、自然かつ快適に幅を利かせることができた。

問題は、もう一つの嫉妬。

人が人の能力や立場、環境など、優れたものに対して抱く妬みである。

 

 

この「すぐれたもの」というのがクセモノで、

私には全く、自分自身が優れているという意識が無かったため、この嫉妬の落とし穴にスッポリはまり込んできてしまったのである。

 

この嫉妬心は、案外、自分自身とよく似たことが出来る人に対して、繰り広げられることが多い。

 

例えば、お勉強のできる賢い人は、他の賢い人に嫉妬する。

けれど、そうでない方は、賢い人にはあまり興味みたいなものが無いことが多い。

 

私が受け取った嫉妬は、この賢い人に、私の答えを出す姿勢、ならびに答えがでることを妬まれた。

それも、見事にこっそり妬まれた。

 

私は、霊媒体質の特長として、お相手の意識レベルと無意識レベルが一致しているか否かを感じ取ることができる。

口ではいいこと言って、納得してますけど、全然内面に届いてませんよね!!なんか、私のこと、嫌ってますよね!!というような経験が、何度となくやって来る。

 

何を嫌われているのか、何を納得してもらえないのか?

私は、人間レベルで知恵を絞り、孤独をひた隠しにしながら、そこに向かい合う日々を余儀なくされた。

虚しく空回る私の思いや言葉と裏腹に、物事は見事に、私の伝える方向とは逆に向かってゆく。

 

 

当然解決には至らない。

 

口では、私の言っていることに納得している風な為、私はそれ以上の口出しをすることができない。

手出し口出しが全く出来ない!

 

本当はその場で相手を変えることはできたのかもしれない。

 

けど、嫌われたり、納得してもらえないのは、私に非があるのではと思い込んでいた私は、それを選ばず、悩み続けた。

 

それが、ある日、私の元に、「嫉妬」という言葉が、やっと届いた。

 

へー!!

この私が、人から嫉妬されてた!?

 

で!!私が嫉妬される理由って!?何!??

 

という状態で、

私はまるで金魚のように口をパクパクさせ、しばらく言葉にならない、間抜けな人になっていた……。

金魚さん、間抜け扱いしてごめんなさいm(_ _)m

 

私は仕事上、当然のように「答え」を求められるし、「答え」を出すことで、人に喜ばれている。(自負心はあるのにね)

それが、まさかの「嫉妬」に繋がるとは、私の中では、天地がひっくり返るほどの驚きであった。

 

なるほど、嫉妬されていたから、素直にこちらの言うことを聞き入れてもらえなかったのか。合点がいったと同時に、今までの悩みや孤独が吹っ飛んだ。

 

さて、この私、ここで合点がいったところで、その嫉妬を許した、認めたわけではない。

かといって、なぜこの私に嫉妬を向ける!!?と怒り狂うこともちょっとだけしかない。

 

私には常に“仕返し”というやり方を選択する習性が、身についている。

 

“嫉妬”に“仕返し”!!

やったらやり返せ!!

最悪の修羅場である。

 

私が“仕返し”と呼んでいるやり方は、互いが幸せかつ円満や調和を手にできる方法を見出すことであり、なおかつ、嫉妬や無知など、その本人に不必要な働きをするエネルギーレベルを切り替えることを行う。

 

私のセッションやワークを受けていただいた方々は、私が、「仕返し」と言う度に、ギョッとされる。

その顔を見るのもまた、私の楽しみなので、このワードを私は使い続けている。

 

過去に起こったことを、人間は清算し、生きなければならない。

その立場が、たとえ被害者だったとしても、それは、その本人が選択したり、それ以外のやり方を知らなかったりしたため、そこに不調和が生まれ、その波動や出来事を引き寄せてしまったからである。

 

そこに気付き、違うやり方や、違う選択をすることで、解決や調和を生み出す必要がある。

 

その調和を求め、私は常に、“カルマ解消”や“仕返し”を考え、表現してきた。

カルマ解消にしろ、仕返しにしろ、私が見届ける必要のある調和が、私を救い、愛を受け取る。心から、この世の平和を願い、ためらいの無い感謝を生み出し続けられるよう、私はこのやり方を変えない。

 

過去にこだわるわけではなく、「未来からやって来る今」が、最良のものであるためにも、わだかまりを抱えた状態で物を見続けることは、私らしくないのである。

 

私らしくない私が、時折顔を出し、私を笑う。

逃げても逃げても、言葉を失う私が、私らしくない私に追いかけられ、問題を大きくしてゆく。

 

本当ならば、問題にならないことまで、問題扱いし始める。

 

やりにくい上に、他者まで巻き込む。

 

そこどけ、そこどけ、私が通る!

 

そんな勢いで、誰かを傷つけ、愛の無い言葉や態度を発生させる。

 

後悔すらしない。反省もしない。

あるのは、自分だけを守ろうとする不躾な私。

言い訳や逃げ口上だけを思いつき、なんら前向きな案や意見を出そうとはしない。

わかっちゃいるけどやめられないことを、まるで正気のような顔をして、やり込めていく。

 

外面(そとづら)は良くても、中ではねー。

そんな風に、周りの人達に口にされることは避けたい!

そうはなりたくない!!

そんな意地めいたものも持ちつつ、丁寧に私らしくない私とさよならできるやり方を、手にしてきた。

 

 

肝心な、私らしい私を取り戻すこと、それには、新しいやり方が必要!!

今までとは違うやり方が、そこには待ち受けているハズ。

常に、その考え方で、私は“カルマ解消”や“仕返し”を考えてゆく。

 

私が紡ぎ出す言葉をヒントに活躍してくださる方が増え、私が与えられた使命の一部が叶い始めている中で、私が本来求めるべきカタチを、見失った時期があった。

 

傲慢になったわけでもない。

逆に、自信を失ってゆく私自身がいた。

 

ハタ目から見たら、きっとうまくいっている。

不満や愚痴を言う場面など、ほぼ見当たらない生活や仕事をさせていただいている。

誰かに何かを言われたわけでもない。

ただ、カタチが気に入らない。

まるで、駄々っ子のように、「このカタチが!」と言い続けた。

 

今でもなお模索し続ける、私のとるべきスタンスやカタチは、一生変わり続け、私の人生を支配し続ける。

常に新しいカタチを求め、やり方を変えてゆく。

飽きることなく、と言えば聞こえは良いが、

こだわり続けるのは、私の人生の糧となる教えに従い、巻き込む催しを変えてゆくのである。

 

私の学びとった教えの数々は、私を幸せに、より豊かにしてくれる。

過去の屈折した思いや不甲斐なさを見事に消し去り、私に合った理解を与えてくれる。

チャンスがあれば喜ぶ、チャンスがなければ、それはそれで、助ける先に目を向ける。

 

湧き上がる思いとともに、沢山の喜びを味わわせていただき、このやり方、この使命感にもたらされる恩恵に、自然と感謝できるようになった。

 

もうすぐわかる!

そんな感じで、いつも答えを受け取る。

 

これには答えなどないのでは?と思ったことは、一度たりともない。

 

必ず、導かれる先がある。

必ず、そこに光は差す。

それにより、知れる言葉がある。

 

私は、ワードにこだわる。

そのワードが持つ意味やエネルギーで、人を見る。

わかりやすくお伝えするためにも、全て、そこに集約されるワードを探すことで、私は、果てしなく続く人間の性(さが)を見直す。

 

魂が選んだこの人生を、人間として全うするために、

お手伝いができればという思いと、

その魂でさえ何かしらの不自由さや不都合を抱え、意識を変えられず、進まぬ思いを抱えていることを知り、その流れまでも変えてゆかねば、魂レベルが向上してゆかないことも、理解している。

 

魂のレベルを上げること、それは、人間の努めであり、喜びである。

最良の選択をし、自らの性(しょう)に合った生き方をする。

それこそが、愛や感謝の波動で出来上がっている魂に戻ることにつながり、神様に誇れる人生を送ることができるのである。

本来なら、最良とか、最悪などという言い方で、神様が何かを判断されることはないのだと思う。

しかし、あえて、最良の選択とは、運の良さや、気分の良さをもたらせてくれるため、人間の波動は上がり、魂のレベルを向上させてくれることに繋がってゆく。

 

つらつらと私の思いを書きながら、見出す必要のあるものが、ご理解いただければ幸いである。

 

私が期待し、挑戦してゆきたいことの一つに、人がシンプルに生きることで生まれる創造性に無限を受け取ることを、知ってもらいたいと、考えている。

 

どこまでも人はシンプルに生きられる。

その個性や使命が、全て愛や感謝に繋がり、無限と呼ばれる宇宙のエネルギーを受け取る。

 

物質を超え、何もかもを解決や飛躍へとつなげてくれる創造のエネルギーは、自分自身の魂を感じ生きることができる器となる。

 

語り尽くせぬほどの幸せや経験を、その器を通して味わい、今世を完結する。

完結とは、気が済むということ。

 

気が済まなければ、根に持ち、恨みつらみに変わることも多い。

 

そして、未完であればあるほど、次にやってくる課題やテーマが重たく感じ、来世の私は留まるところを知らない不幸な輩となり、存在してしまう。

 

もっと、いいことばっかり考えればいいのに!と、私はいつも私に思う。

もっとポジティブに、もっと光だけを見るやり方が、あるだろうにと。

 

人間は地球の二極性の加減もあり、光を見ようとするともれなく闇が出現する。

その闇を光に変えるのか?その闇をそのままにするのか?その闇を拡大させてしまうのか?それもまた個人の選択となり、その本人に任せるしかない!?いやいや強引にでも光に行きましょうよ!!と言いたいところで私の葛藤は始まる。

光を被せてゆくことはできる。

光を与えことを円満にスムーズに持ってゆくことを、その場でエネルギーワークとして行うことは、きっとこの私にだってできるのだろう。

しかし、その光を受け取る本人に、その器の用意がなければ、その光はまた行き場を失う。

私の仕事は光を受け取る器づくりだと感じる。

素直に光を受け取り、自分自身を切り拓いてゆく、もしくは取り戻してゆく。そして、愛と感謝の魂として魂のレベルなり、波動を上げながら今世を全うする。

光は自らの中にある。そこに気付ける人を育てる。神様は人間に光を持たせ、生れさせてくれている。その光を信じ、その光を見出し、その光にて使命を全うする。全うすべき使命を人は必ず持ち、この世に転生する。

その約束や使命に気付くためには内なる光に触れることが必須となり、自分自身を信頼し、他者との調和をはかる功徳となる。

功徳の積める人生を送る。それこそが私の思うところのカルマ解消であり、仕返しであり、はたまた未来からエネルギーを受け取る野望である。



常に心(脳)がワクワクしっかりしていて欲しい。

ワクワクと言うとふわふわ安定感のないように受け取られる気もするが、人間がワクワクしている時は見事な計算や先読み、俯瞰する力が働き、直観という形でことを運べる。

おもしろいようにスイスイと行動できる。必要な人とタイミングや都合、意見が合う。

内なる光が発動し、光が柱として発信できる。

そこに愛と対極となる怖れは表現されなくなる。人間の怖れは幻であると私は常に説いてきた。他にもたくさんの幻は存在する。

意識レベルが勝手に作り出す幻に翻弄されず、無意識の語る言葉や声に耳を傾けられる人であろう。人間は常に誰かに騙されているのかもしれない。


言葉は悪いが、目には見えぬ因縁めいたものに日々騙され、方向性が見えなくなっているのかもしれない。誰かと繋がっていなければ、要は一人では生きてはゆけないという思い、本能が怖れを作り出し、因縁を迎え入れる。

人間は一人では生きてはゆけない。確かにこれは正解。ならばどうする!?人に執着してみよう!?人を支配してみよう!?人と仲良くしてみよう!?人の助けになってみよう!?人に助けを求めてみよう!?


私の場合は友達を作ってみることにした。そしてこれは私が仕事をする目的でもある。

孤独で何の安らぎもなく仕事をしてきた時代もあったが、私の誇りは気楽さであり、私の美学は友達と共に学び働くこと。
そして、私の愛の条件は「チームワークの賜物」「気分良く生きられる違う毎日」「愛する人達がいつも精鋭」「至れり尽くせりで心が弾む」などで人生を回すこと。

私にとって、申し分のないこれらのワードは癒やしに繋がり、自分自身の判断材料ともなる。

此処に関係、関連するものだけを引き寄せ、ここに関係、関連しないものはお断りすれば、私は当然、元気で快適に生きられる。

自身の愛で自身を癒やし、自分の持ち場を知りつつ「明日が今日より幸せで当たり前」を叶えてゆくことが、私の中での常識となり、全ての攻撃から身を守れる術となる。

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