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大人は大人であるべきか、子どもであるべきか

noteを始めて(再開して?)数日が経った。

これまで人の投稿を見るばかりで、noteを投稿する側が行う設定や使える機能をほとんど理解していなかったので、とりあえず色々試してみることにした。

ひとまず「バッチ」なるものがあると知り、そこに書かれた項目をクリアしていくことにする。
スキへのお礼やプロフィールの設定、記事の固定などやりやすいミッションからクリアしていく。


フォトギャラリー?というのはなんだろう。
あ、投稿に使った写真を登録することで、色んな人が使えるようになるのか。あとわたしも登録された写真を投稿に使えるのか。ほーん。

個人情報や顔の写り込みに気をつけつつ、とりあえず最近撮った風景写真を登録してみると1時間も経たないうちに通知が来た。



「〇〇さんが〜〜で、あなたの画像を使用しました」

フォトギャラリー、意外と使ってもらえるんだな。我が子がひとり旅に出ていくようで嬉しいかも。どんな記事で使ってもらったのか見てみよう。



ん?



……。
タイトルはなんか、ちょっとアレな感じだけど。
「セ」から始まる言葉も色々あるよね、とりあえず記事見てみるか。
(通知ではそれ以降のタイトルが文字数の関係で見えなかった)


あ、年齢確認されるな。そうですか、やっぱり。



んー、なんだろう。

フォトギャラリーの写真を使うのは写真の所有者に通知がいくから?
通知が来れば、誰かに見てもらえる可能性があがるから?
なんだそれ。



初めて使った機能で、初めて来た通知に少しわくわくしたわたしにとって、最もつまらない結果だった。
釣りとしか思えない記事に写真が使われたことが、ちょっと悲しかった。


その後、想像以上に色んな人がわたしの写真を使ってくれて、通知が来るたびに記事を見に行ってみる。

今日は眠い。散歩に行ったらこんなことがあった。これから美術館に行ってくる。

その人の書きたいことを書いた、普通というと語弊があるが多くの人が書くような普通の記事で、写真を使ってくれている。


本当は、想像よりも多くの人が写真を見てヘッダーに置いてくれたことが嬉しかったのだが、最初に使われたnoteのことが頭をよぎり、卑屈になる。

人なんてそんなもんだよね、写真使ってくれてるのだってきっとPV増やしたいとかそういう理由で、写真を気に入ってくれた人なんてそんなにいないんだろうな。


被害妄想かもしれないのは、ちゃんとわかっている。
もしかしたら、最初のnoteだって年確はされるものの面白くて素晴らしい記事だったかもしれないし、R・PG指定が付いている映画にだって素晴らしいものが沢山あることを、わたしだって知っている。

でも、嫌だったのだ。
どうしても「最初」以外であって欲しかった。


基本的に、知らない人が写真を使ってくれたらなんとなく見にいくし、スキをもらった時にも見にはいく。
でも「大半はどうせPV目的なんだろ」と、わたしの考えは捻くれたまま固まってしまった。



翌日、本の感想を書いたnoteにスキをもらった。
スキをくれた人のプロフィールをなんとなくタッチし、一番上にあった投稿を読む。

要約すると、「自分の投稿を読んで感動してくれた方がおり、そのことをnoteで綴ってくれたのが嬉しかった」という内容だった。
(実際のnoteの表現はもっと気持ちが乗ったものだったのだが、冷めた要約となってしまい申し訳ない……)


素敵だと思ったnoteがあって、そのことをnoteに綴る。
書かれた人が嬉しく思い、さらにnoteに綴る。

なんの変哲もない、と言ってしまうと言いたいことと言葉の持つ雰囲気がずれるのだが、出来事自体はそこまで珍しいことではないと思う。


ただ、昨日ちょっとしたわくわくを踏みにじられて、「人なんてどうせ他人のことなんてどうでもいいんだろうし、顔も見えない人の賞賛なんて信じない方が振り回されずに済むからいいんだ!」とすっかり捻くれてしまったわたしにとっては、すごく素敵な出来事に思えた。

思えば、わたしが誰かのnoteにスキを押すときは心からいいなと思ったときで、それなのに自分のことになると被害者面しちゃってほんとダメだな、と反省した。
自己防衛のための自然な反応ではあるのだろうが、わたしはこれをよくやってしまう。



これから起こる危険を予想し先回りして回避できるのは、大人の優れたところだと思う。
みんなが目の前にあるものをなんでも口に入れたり、興味関心のままに走り回っていたら、社会は崩壊するし、何より命がいくつあっても足りない。詐欺にだって騙されるかもしれない。

ただ、危険を回避することばかりが上達してしまうと、感じられるものがほとんど無くなってしまう。
感受性を活かしてしまうとどうしても感情に振り回される部分が出てくるので、何も感じずに淡々と処理できることが至高となるように思える。


でもそんなのはつまらないし、そんな人のやることに感動できる気がしないし、そんな人になりたいとも思えない。

もう少し柔軟に、大人の頭と子どもの心を持ち合わせていられたらと思う。
素直に喜び、悲しみ、怒りながらも、危険な時には頭で自分を守ってあげたい。




最後に。
元来わたしは感受性が豊かすぎる側面があり、かつ事態をネガティブに受け取りがち。感情ジェットコースターと言われることが多々ある、どちらかというと子どもが自由すぎる状態である。

最近は少し大人な頭を育てようと思い、『反応しない練習』を読んでいる。

早速実践してみて効果を実感しているのだが、あまりにも反応がなくなりすぎたらしく、先日「対話している気がしない」と友人に怒られてしまった。

ちょうどいい塩梅への道のりは遠そうだ。


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