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月の缶詰3

別れの予感の三日月

「もうすぐ新月や。」

空を見上げて月が言った。

「だいぶ細くなったね。」
「スリムでさらにかっこよくなったやろ?」
「ノーコメント。」
「美晴はほんとに失礼やなあ。」

いつものように軽口を叩き合って笑っていたら、少し黙った月が急に真剣な声になってぽそりと言った。

「無事に月に選ばれて役目を終えたらな、好きなところに行けるらしいんよ。」

そしたら、美晴のところに帰って来てもいいやろうか。
彼は小さな声で私に聞いた。

「ちゃんと立派に月やってきたら、いつでも帰っておいで。」

私は情けなく震える声しか出せなかった。
必死で涙を堪えて、待ってるからとなんとか伝える。

「そしたらな、あのときの欠片は僕の代わりと思って美晴が持っといて。5年後に帰ってくるときの目印にするけん。」

とうとう涙腺が崩壊した。
いつものように柔らかい彼の声も少し湿っぽくなっていて、彼も私との別れを惜しんでくれているのだと少し心が温かかった。

月に選ばれず、宙を漂うだけの石になってしまったらもう会えない。
けれども、月になれたら彼は私のもとに帰ってくると優しい約束をくれた。
そして、独りの間、少しでも寂しくないようにと自身の欠片を私に預けて行くという。

「分かった。帰ってくるときに月が迷子にならずに済むように大事に預かっとくね。」
「迷子て。美晴やあるまいし、僕はならんけどな。」
「強がらなくたっていいよ。」
「いや、事実なんやけど。」

月は、しょうがないなと言わんばかりのため息をついた。

「まあそれでいいわ。ずっと美晴のそばに置いといてな。僕がちゃんと帰って来られるように。」

別れを予感させるやり取りは、胸を突き刺したけれど、彼はそこに希望を残してくれた。

さよならの新月

どんどん細くなっていく彼を見ながらいつ別れの挨拶をするべきか迷っていた。
早く言い過ぎると寂しくなるから。
けれども、ある日彼は忽然と消え、まさかと思って空を見上げると、とうとう新月を迎えていた。
彼がいなくなったと理解できた途端に、ポロポロとこぼれ落ちて始めた涙を拭うことなく、ドレッサーの上を見つめて立ちすくむ。
この広い家の私の狭い部屋の中のどこからでも見える場所は、このひと月の間の彼の定位置だった。
彼がいた場所はぽっかりと何もない空間になっていて、痕跡もなく、このひと月の出来事が夢のことのように思われた。
慌ててカバンからポーチを取り出す。
そこにはハンカチに包まれた小さな欠片が、今朝確認したとおりに入っていて、月の存在が確かに現実であったことを私に証明してくれた。

欠片を握りしめてとてつもなく後悔した。
少しくらい早くても、別れを告げた日に家でまた彼と会って間抜けな感じになっても言えばよかった。
さよならは言ったら泣いてしまうから、せめてまたねと笑って言いたかった。

独り、濡れた瞳で空を睨みつける。

「月になって、ちゃんと帰って来なかったら怒るから。」

もう怒ってるやんと言う彼の声が聞こえた気がした。
開いた掌には欠片の跡が残っていた。

見えない三日月

彼が空に帰ってから1週間、天気が崩れ、分厚い雲に月は隠されていた。
彼は無事に月になれただろうか。
彼が残した欠片はロケットペンダントに入れて、毎日肌身離さず持ち歩いている。
ずっとやきもきしながら空を見つめる日々。
早く彼の姿を確認したいと、毎日必死に空を見上げながら帰っていたら、後ろを向いてすっ転んだ。
何もないところだったのに。
誰にも見られてはいなかったけれど、ものすごく恥ずかしかった。

足元、よく見て歩かんからこけるんやろ。
そんな必死にならんても僕はちゃんとおるから怪我せんように気をつけんといけんよ。

結局、三日月の彼は見えなかったけれど、彼の呆れた声が聞こえた気がした。


霞む満月

満月の日、神様の思し召しのように久しぶりの晴天となった。
神様など、信じたことはないけれど。
でも、今日はさすがに月の姿がよく見えるだろう。
暗い駅から出て、夜空を見上げる。
今日は転ばないように立ち止まって月を探す。

見つけた満月に、私は崩れ落ちた。
誰もいない駅前でしゃがみ込み、鞄に顔を押し付けて声を上げて泣く。
鞄はすぐに濡れて冷たくなった。
しゃくりあげるほど泣いたのは、大人になって初めてかもしれない。
泣きながらもう一度月を見つめるけれど、涙で霞んでよく見えない。
袖で涙を拭い、溢れそうになる新しい涙をなんとか堪えて見た先の満月は、以前のものと変わらず、銀に輝いている。
そして、ほんの少し、けれどもはっきり、私の胸元の欠片と同じ形に欠けていた。

「おめでとう。ほんとによかった。おめでとう。」
彼を見つめて、泣きすぎてガラガラになった声で呟く。

すると、月のそばの星が一つ流れ落ち、彼の声が聞こえた。

ありがとう。
そんなに心配せんでも大丈夫って言うたやろ。
そんなところで座り込んどったら風邪ひくから早よ帰り。
またな。


私はゆっくりと立ち上がり、月を見つめたまま、でも転ばないように慎重に歩き始めた。