鏡の中のわたし
ようやく眠りにつけそうというところでスマートフォンが鳴り響き、聞き飽きたその音色は私に朝を告げた。
朝が来てしまったならば、例え満足に眠れないままだったとしても私は今日も仕事に行かねばならない。
昨日も遅くまで働いたというのに、デスクに積み上げられた山が大して低くはならなかったことを思い出して溜息が溢れる。
ゆっくりと身体を起こし、そろりと床に脚を下ろした。
素足に触れる床は冷たく、毛布に温められていた足先から急速に温度を奪っていく。
冷え切る前に立ち上がったほうがいいと頭では分かっていても、いつの間にか疲れと憂鬱を溜め込んだ心が枷となって、今日は身体が言うことを聞いてはくれない。
結局、何もできないまま床を見つめ続けて身体が冷え切ったころ、私はやっと重たい脚を引き摺るようにして洗面台の前に立った。
視線を上げた先、鏡の中には今日も制服を身につけたわたしがいて、目が合うと無機質な声で今日も話しかけてくる。
ーおはようございます。また朝が来ましたね。
私は黙ったまま彼女に睨みつけるけれど、彼女は意にも介さず無表情に続ける。
ー今日も懲りずに行くんですか?
「行かなくちゃ。」
彼女の淡々とした声色に滲む、馬鹿にしたような音に腹が立って掠れた声で少し強く言う。
ーなんのために?
これまで何度も繰り返してきたこの意味のない会話に、今日は続きがあった。
驚いて少し口籠もり、それでもなんとか言い返す。
「・・・理由なんてないの。それが大人ってものなの。あなたみたいな子どもには分からないでしょうけど。」
ーそんなに尽くしてもあなたのことなんて誰も守ってくれないのに?
「そんなことないわ。」
ーほんとうに?
畳み掛けられて言葉に詰まる。
デスクに山積みになった書類を見ては、仕事が遅い自分のせいと言い聞かせてきたけれど、本当はほとんど私のものではなかった。
同僚たちはあなたならできると優しく嘯いて私に仕事を押し付け、私がひとり遅くまで残業するのを知っていても上司は見てみぬふりをして、もう無理だと相談しても何もしてはくれない。
もうずっと。
「でも、私じゃないと。」
なんとか絞り出した返事はすぐに捻り潰される。
ーいいえ、選ばれる人間というものはほんの一握り。あなたがそうじゃないことは自分でも分かっているくせに。
分かっている。
私は消耗品だ。
私が壊れても、なんの影響をもたらすことなくただ補充されるだけ。
それでも。
「次の誰かを壊されなくても済むかもしれないわ。」
ーそうかもしれない。でも、壊されるのは自分じゃなくてもいいとは思ったことはないの?
淡々とした問いかけに今度こそ黙り込む。
諦めるように目を伏せると、彼女は同情したように優しく私に問いかける。
ー満足してますか。
ー後悔はしてはいませんか。
ーやり直したいとは思いませんか。
やり直せたら選びたいもの、選ばないものがあるんじゃない?
ぐらぐらと揺れる私の心を見透かすように彼女は甘く囁き続ける。
ー替わって、あげましょうか。
あのころ苦痛で堪らなかった学生時代を思い出させる制服姿のわたしは、それなのにまるで幸せであるかのように微笑む。
今頷けばすべてがうまくいくような錯覚に襲われて、私は光を宿らせたわたしの瞳から目が離せなくなった。
ー替わってもわたしたちはうまくやれるわ。
ーだって、わたしはあなた。あなたはわたし。
差し伸べられた手に触れそうになったとき、スヌーズを切り忘れたスマートフォンがけたたましく私に現実を突きつける。
びくりと身体を震わせて我に返った私は、甘美な誘惑からなんとか目を逸らし、蛇口を捻って冷たい水を掬い上げると、いつの間にか温度を失っていた指先にはそれすら温かく感じられた。
叩くように顔を洗い、鏡の中のわたしに言う。
「まだ、いいわ。」
鏡の中のわたしは、瞳から光を消すと薄く微笑んで、いってらっしゃいと言った。
こちらは、清世さまの企画にぎりぎり滑り込みで参加させていただくものです。
この女の子、すーごい目で訴えてくるものですから、なんかいろいろ痛い腹探られてるような感覚に陥ります。
でも、私もこのくらい美人で目力があったなら、いろいろ手に入れられた気がする・・・。
と馬鹿なことを考えつつ。
あとひとつ、いけるか?無理か?と思いながらとりあえず書けたものから失礼させていただいて。