くだらなくて、でも。
「お願い。おごるから!」
全くそそられない彼女の誘いに頷いたのは、昨年、彼氏と別れたと目を真っ赤にしていた彼女が新しい恋を探しに行く気になったのを知ったから。
恋だの愛だのくだらないと思いつつも、その感情に振り回される彼女はいつも生気に満ちていて、彼女をそうさせる感情には興味がないわけではなかった。
まずは飲み物を頼もうか。
男性幹事の一声で始まった4対4の合コンは驚くほどつまらなかった。
自分でも空気の読めない女だと思いつつも、どうせ飲むなら好きなものがいい。
「私ハイボールで。」
各々が相手の目星をつけてこの後の展開を計算し始めると、初っ端からハイボールを頼むかわいくない女はあぶれることとなった。
もう帰ってもいいかなと思ったとき、目の前の彼と目が合った。
男女同じ人数ということは私のせいで先方にもあぶれた人がいるということか。
それは流石に申し訳ないかもしれない。
「宮下さん、おかわり頼みますか。」
「ありがとうございます。同じもので。立崎さん、でしたっけ。」
「はい。立崎健太です。」
嫌な顔一つせず、彼はもう一度名乗ってくれた。
自己紹介もきちんと聞いていないやる気のない女と彼の会話が存外弾んだのは、彼が聞き上手だったからかもしれない。
気が付けば、ラストオーダーの時間はとうに過ぎていて、名残惜しくなって2軒目に誘ったのは私の方だった。
「お時間大丈夫ならもう1軒どうですか?」
「宮下さんはいいお店知ってそうですね。お供させてください。」
聞き上手な彼は紳士でもあった。
「終電、大丈夫ですか。」
30女の終電を気にしてくれる男。
このままなし崩しもいいかもしれないと思っていたアラサー女にはその誠実さが沁みた。
どうやら私は彼の好みではなかったようだということも。
私は余裕ぶって微笑む。
「確かに終電やばいかもです。そろそろ解散にしましょうか。」
店を出て街灯だけが灯る道を駅へと歩きながらお礼を告げる。
「今日はありがとうございました。私楽しくて喋りすぎました。」
「僕もとても楽しかったです。だから、その、またお誘いしてもいいでしょうか。」
「ぜひ!」
はにかむ彼の提案に飛びついて連絡先を交換して。
ぽつぽつと続くLINEのやりとりも、仕事の合間を縫って重ねるデートも、どちらも私にとってなくてはならないものになっていった。
4回目のデートはクリスマスだった。
この頃には、交際を申し込まれるのはいつかとやきもきするようになっていて、あんなにくだらないと思っていたものに自身が振り回されていることに気づいて恥ずかしくなる。
この日、私たちはいつもよりよそ行きの服を着て食事をし、最後に彼は、綺麗に飾られた木の下で、少し震えているようにも聞こえる声で私に交際を申し込んだ。
典型例だと思いつつも、一生懸命考えてくれたのだと思うと彼が可愛くてたまらなく思えた。
そして、クリスマスは私たちにとって大切な記念日となった。
私たちはお互いを名前で呼び合うようになり、年1回の旅行も、何気ない日常も、はたまた些細なことから勃発する喧嘩も、何もかもを思い出として積み重ねていった。
一緒にいたい、大事にしたい、というこの気持ちが恋とか愛とかそう呼ばれるものなのだということを私は彼のおかげで思い出していた。
一緒に迎える3度目のクリスマス。
あの日と同じ木の下で、彼は私に家族になろうと言った。
独りで歳を重ねてきた私たちは、ずっとこのままでもいいかもね、なんて冗談のように言い合うほどには変化を恐れていて、つい先日もそんな話をしたばかりだった。
急にどんな心境の変化かと、からかうように彼に尋ねる。
「遥、この前入院したんだろ。」
彼は真剣な顔をしていた。
つい先日、私は何もないところでつまづいて階段から転げ落ち、検査入院していた。
大したこともないし、恥ずかしいしで彼には連絡していなかった。
「ごめん。この前、遥の鞄倒しちゃったときに病院の明細があったの見ちゃって・・・。すごい衝撃だった。俺たちの関係は曖昧で、遥に何かあっても俺には連絡すら来ない。」
「それは私が連絡しなかったからで・・・。」
「違う。いや、今回はそうだったのかもしれないけど、遙自身が連絡できないことだって起きるかもしれないだろ。」
そうか。健太に何かあった時も私は連絡をもらう正式な権利はないのか。
それは嫌だと思った。
「結婚式はしなくてもいいかな。この歳でドレス姿とか恥ずかしくて見せられない。」
「じゃあせめて写真くらいは撮って、ご両親に見せてあげなよ。それくらいは親孝行だと思って。」
「考えとく。入籍は健太の誕生日にしようか。」
「いいの?」
「実はそこには全くこだわりない。」
「じゃあそうしよう。指輪も探しにいかないとね。婚約指輪も。」
「婚約指輪はいいよ。ほとんど付けることないんだし。」
「俺があげるって言ってるんだからそんなこと言わないで貰ってよ。」
そんな幸せの最中、仕事中に知らない番号から電話が鳴った。
彼のお父さんからだった。
どれほど立ち尽くしていたのか。
廊下まで後輩が呼びにきた。
のろのろと顔を上げ、後輩に今日の仕事の引き継ぎをして、上司に休暇の申請をして、鞄を引っ掴んでタクシーに乗り、行き先を告げる。
淡々と社会人としての務めを果たす自分を遠くから見つめているような錯覚をした。
それでも、たったこれだけのことにとんでもない時間がかかったような気もした。
タクシーを降りて病院に駆け込むと、ロビーで彼のお父さんが待っていてくれた。
頭を下げて、掠れた声で聞く。
「・・・健太さんは?」
無言で案内された先には、白くて涼しい部屋。
季節は真夏だというのに寒いくらい。
そこで彼は静かに寝ていた。
呆然とする私は泣くこともできなかった。
信じられないほど空が青い日だった。
それからのことはあまり覚えていない。
覚えているのは健太と連絡が取れなくなったこと。
そして最後のお別れの日に彼のご両親が、
「遥さんは生きて幸せになって。」
泣き腫らした目でそう言ってくれたことだけ。
全てが終わると日常が戻った。
今日も生きるため、息をして、ご飯を食べて、仕事に行く。
何も考える余裕がないように。
でないと、私は彼の痕跡を探してしまうから。
そういえば、結局間に合わなかった。
健太に何かあった時、連絡をもらう正式な権利を手にするのは。
私の戸籍は綺麗なままで、彼と家族になるはずだった記録は記憶しか残っていない。
けれども、紙一重で間に合った。
彼のお父さんから電話もらえるだけの関係になるのは。
ご両親と一緒に、眠る彼の側で立ちすくむ権利は辛うじて手に入れた。
でも、私が本当に欲しかったのはたぶんこういう権利じゃなかった。
健太がいなくなってから初めてのクリスマス。
あの木の下で私は泣いた。
みっともなく声を上げて。
健太がいなくなってから2度目のクリスマス。
あの木の下でやっぱり泣いた。
今度は静かに。
健太がいなくなってから3度目のクリスマス。
あの木の下で、ずっと思い出せなかった健太の声が聞こえた気がして空を見上げた。
「なあ、まだ新しい人見つかんないの。」
「うるさいなあ。」
「俺よりいい男なんていっぱいいるだろ。」
「そりゃいっぱいいるけど、その中で私でもいいって人はいないのよ。」
「なるほど。」
「納得しないでよ。むかつく。」
「・・・ほんとに他にいい人いないの。」
「しつこい。そもそも私は健太がいいの。健太だって私に他の男がいたら嫌でしょ。」
「俺を重い男にするのはやめてくれよ。俺は遥に幸せでいてほしいんだって。」
私は健太を忘れられないし、忘れたくない。
健太ではない誰かと生きていく未来を想像できないし、したくない。
そのくらい恋で愛だった。
私は幸せよ。ちゃんと。
そりゃ、健太がいたらもっともっと幸せだったと思うけど。
かつて書いたお話もクリスマスだったと思い出したのでこちらも。