当たり前のことをちょっと疑ってみる~日本講演新聞

日本講演新聞は全国の講演会を取材した中から、為になることや心温まるお話を講師の許可をいただいて活字にし、毎週月曜日、月4回のペースで発行する全国紙です。 

先月、山口県の曹洞宗の僧侶、藤田和彦さんの話を聴いた。

 10年ほど前、藤田さんはテレビで時のナントカ大臣が、とある小学校を視察しているニュースを見ていた。一人の児童がその大臣に「何のために勉強するんですか?」と質問していた。大臣は「う~ん、難しい質問だなぁ。おじさんにも分からないよ」と答えた。

 確かに唐突にそう問われても、短い言葉で小学生に分かりやすく説明するのは容易ではないだろう。

 ある日、藤田さんは小学2年生の娘さんの宿題に付き合うことになった。子どもが道徳の教科書を声を上げて読む。それを横で聞いてあげるのだ。

 娘さんが読み始めたのは、詩人まど・みちおさんの『朝がくると』という詩だった。


 朝がくると
 とび起きて
 ぼくが作ったものでもない
 水道で顔をあらうと
 ぼくが作ったものでもない
 洋服をきて
 ぼくが作ったものでもない
 ごはんをむしゃむしゃたべる
 それから ぼくが作ったものでもない
 本やノートを
 ぼくが作ったものでもない
 ランドセルにつめて背中にしょって
 さて ぼくが作ったものでもない
 靴をはくと
 たったか たったか でかけていく

 ぼくが作ったものでもない道路を
 ぼくが作ったものでもない学校へと

 ああ なんのために
 いまに おとなになったら
 ぼくだって ぼくだって
 なにかを 作ることが
 できるように なるために

 藤田さんは言う。

「これを聞いたとき、目からウロコが落ちる音が聞こえた」 

 なるほど、何のために勉強するのかを考えたとき、この詩は大きな光を与えてくれるだろう。

 では、なぜ学校に行かねばならないのか。勉強なら自分のやりたいことを好きなところでやればいいではないか。

 最近読んだ佐久間勝彦著『学びつづける教師に』の中に、ノーベル賞作家・大江健三郎さんの話が載っていた。

 大江さんの長男・光(ひかり)さんには知的な障害があった。光さんは音に非常に敏感な少年だった。7歳になって小学校の特殊学級に入学した。

 ある日、大江さんは息子の教室を覗いた。光さんは両手で耳をふさいで、体を固くして過ごしていた。大江さんは思った。

 「光はなぜ学校に行かねばならないのか。障害は一生治らないのだ。野鳥の声を聞き分け、鳥の名前を親に教えるのが好きなのだから、自然の中で親子3人、暮らせばいいではないか」 

 しばらくして光さんは、自分と同じように騒がしい音を嫌う生徒を教室の中に見つけた。光さんはその子に寄り添うようになった。休み時間には一緒に耳をふさいだ。運動能力が自分より低いその子のためにトイレに付き添ってあげるようになった。

 「自分が友達のために役立っている。それまで母に頼って過ごしてきた彼にとって『新鮮な喜び』として感じられたのだろう」と佐久間さんは綴っている。

 その後、光さんは音楽と出会い、13歳のときから作曲をはじめ、作曲家になっていくのだが、その音楽のことを大江さんは《言葉》と表現している。

 「光にとって音楽は…自分が社会につながっていくための、一番役に立つ言葉です。国語も理科も算数も体育も、自分をしっかり理解し、他の人たちとつながってゆくための言葉です。そのことを習うために、いつの世の中でも子供は学校へ行くのだ、と私は思います」と。

 勉強するのは当たり前、学校に行くのも当たり前、多くの人はそう思っているが、その当たり前のことをちょっと疑ってみると、実に奥深い言葉に出合える。

(日本講演新聞 2013年7月15日号 魂の編集長・水谷もりひと社説より)


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