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『極限の思想 サルトル 全世界を獲得するために』-冒頭-


シュールで写実的表現の『嘔吐』を読みながら、哲学者であり思想家、文学作家のサルトルとはどんな人なのか知りたくなったので、サルトルの発言や人物像の描かれている本を読もうと思ったのです。

まず、哲学書の「ここが嫌い」から入ります。

存在しないものは存在しない。存在しないものに存在が帰属することになるなら、それは同時に存在するものであり、かつ存在しないものとなってしまう。それが存在しないものと考えられるかぎりでは、存在しないものは存在しない。他方で、それが思考されている以上は存在しているはずであるというならば、存在しないものは存在し、かつ存在しないものとなるはずである。──べつの仕方で考えてみる。非存在が存在するなら、存在は存在しないことになる。両者は対立するものであるからだ。そこで、非存在に存在が帰属し、存在にはしかし非存在が帰属するならば、〔存在するとされた〕非存在には〔存在には逆に非存在が帰属するいじょう〕存在しないものが帰属することになってしまうだろう。

P19、ヘーゲルの哲学史講義

 存在しないもの、無について考えてみることとしよう。存在しないものは存在しない、すなわち無であり、無は存在しないとしても、存在しないものもそれが考えられているかぎりでは、考えられているものとして存在している。

かりにそう言うとするならば、「存在しないものは存在し、かつ存在しないものである」と語ることになる。これは自己撞着にほかならない。それゆえ、矛盾を犯してはならないとすれば無が存在すると語ってはならず、撞着が回避されるべきであるならば存在しないものについて思考してはならない。

P20

上記のような文章を読んだとき、哲学を知らない一般の者は、ここが挫折する瞬間であり、初見でこの文章を理解することができるのでしょうか。
以前私も読んだ、ドゥルーズの差異の反復も差異差異……と、ハイデガーの存在と時間も、存在存在……と、差異・存在という単語の間にほぼ助詞しかない(そんなワケない)展開は、頭が混乱して来て脳が溶けそうだった。

真理を知っていてもウンザリしていて、このような文章は飛ばしたくなるのだ。要点だけを抽出して、漢検二・三級くらいまでの漢字を用いてわかりやすい文章にすれば、圧倒的に読みやすいのにと毎回思う。(漫画や名言集などライトな哲学も出てますね)

また、絶対と言っていい程、必ず書かれている哲学史。
哲学の歴史など識ったところで、「だから何?」であり、哲学で理解しなければならないことは、識者Aと識者Bの思想論争への加担や、識者の説法の素晴らしさを崇めることではない。

重要なことは、個の人間の思想の違いを認め、自身の思想や深層にあるものを追求する事。それが哲学だし、それだけでいいと私は思う。

妙な付加価値を付け、人間のたわいもない思考を尤もらしく学術的に難しく曖昧表現し正当化している学問に、私が心底引いてしまう場面なのです。(哲学はまだいい、文学など目も当てられない。吐き気がする!(ツァラトゥストラ風))

そう思うと、ストーリーのある『ツァラトゥストラ』や『嘔吐』は読みやすいです。

さて、少しばかり哲学をディスりましたが、読んでいると仏教に通じるところが多々見えて来ます。

人間の雑多な想いや葛藤、善悪は、思考を重ね、止揚していくと追求した先は無となり、仏教でいう「真如」、心の深層が見えてくる。

その過程と、真理を求めて真理に近づいていく様子を、仏教のような一般でない重々しい言葉を使わずに、哲学はわかり易く本質を表現しているのです。


◉はじめに


まずはサルトル語録から…
(括弧内は私の思考)

・「罪なき犠牲者は存在しない
(戦争に出兵などして犠牲になった者でも罪のない人間などいない。)

ひとは自ら相応した戦争を手にする
(いつもこれは思う。身分相応の他者との戦争を誰もが心の中でしている)

・戦争が終わればそれでも人々は解放感に酔うこともできる。なぜだろうか?
「たいていのばあい私達は不安を逃れ自己欺瞞のうちにある
(人の中に常に不安は存在している。自己を嘲り騙して、不安がないように装っているだけなのだ)

・哲学者みずからの思考が実存の哲学であっても実存主義」ではない
(口先では尤もらしいことを連ね述べているが、では、実のあなたはどうなのだと毎度聞きたくなるのだ。)



◉実存は本質に先だち、各人の選択は人類の選択となる

 神はすでに死んでいる。あるいはそもそも神が存在しない。人間の本質をあらかじめ定義するものは存在しない。だから、人間存在にあっては実存が本質に先だつ。人間はまず存在し、つぎに行為して、そのことでみずからを作りあげる

人間はみずからのありかたを選択し、みずからを未来へ向けて投企する。これが、人間が現実に存在すること、つまり実存することの意味であって、実存が本質に先行することの意義である。「実存主義の第一原理」

・「人間とは人間の未来」未来とは、しかも単独者の将来ではない。全人類の未来なのだ。

ここで言いたいのは、神を見失ってしまっているからには、存在としての認識は自分が行動する行為で自分を作っていくことであり、自分のことしかわかるはずはなく、一切の責任を自分とし未来を作っていくが、自分が存在する世界には、他者と社会があり、世界は全人類が関わり合い作っているゆえに、全人類の未来でもあると言っているのだろう。

余分に無駄に多い言葉と、なんら関わりも詳細もなく「全人類」(⁈)と、突如大きな対象が出て来ることに驚くが、これが哲学書なのだ。自分で解釈する他ない。

ーーー

存在は無と同時的ではなく、無に先行する

「存在と時間」のハイデガーは、「存在」と「時間」を並置することで「いっさいの存在了解一般を可能にする地平として時間を解釈するが…

「存在」と「非存在」はそうではない。無は存在を補足する構成要素ではない。非存在は存在の「反対概念」でもない。非存在とはむしろ存在の「矛盾概念」なのであって、これは無が存在より論理的に「よりあと」である事情を含意している。

存在が無に先行する。無あるいは非存在、もしくは一般的に否定的なものは存在のあとに到来する。とサルトルは主張する。

存在とは無に先行して無を根拠づけるものである

P23、24


難しくわかりにくい、哲学独特の言い回しになっているが、私は勝手に概念だけを要約する。そうすると大したことは言っていない。

存在は時間と共にある。どちらも有るものだから、存在と時間は並行しているが、存在と非存在は、在るもの(存在)と、それが無いもの。
その二項は並行していない。無いモノの有無を判断、評価することは出来ず、先に存在ありきの否定の判断は可能で、「無」の存在も確認出来る。
と、この場面を私はそう解釈する。

本というものは冒頭だけでもそこそこ満足できる。私は殆ど完読できずにいる「本」というものだが、中盤や終盤に読みどころな本質や名場面があったら悔しいと感じるのは私だけだろうか。

因みに、母に聞いたところ、私は幼い頃から本が好きだったようだ。
自分で記憶にあるのは中学二年の一年間、江戸川乱歩を読み漁っていたことから本が好きになっていったと思っていた。

高校時代はラノベ、20歳前後は落合信彦のノンフィクションが好きだった。村上春樹もハリポタも全て読んだ。国内外を問わず小説は好きだった。(今は全く読む気はしない)この頃は全て完読していた。本が面白かった。

「嫌われる勇気」を読んだのは10年くらい前。そこから、私の人生は徐々に変化していった気がする。

気付けば、知らないうちに私も実存主義になっていた。「実存主義」や「グノーシス」なんて言葉を知ったのは一年くらい前。その一年以上前からカラダはそうだった。

お陰様で、口先だけの「虚」に私は敏感に反応して、「実」を暴くのが得意になりました。

実存とグノーシスの思想はあるが、「主義」ではない。主義という形には嵌りたくない…という形に嵌っている。


だから何?




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