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『脱現代篇エクリチュールアート 部屋に鍵をかけなければならない』電子書籍-読書感想文②「空」からの思考-



前回の続き。。


冒頭画像の文字は、私がトリミングをしたのではなく、原本表紙がそうなっている。

また、今回も適宜内容をピックアップして、この感想文記事を進めたいと思う。

・身体性と意味性の争奪が、亡霊によって、行われ、まるで、ニーチェがそうだったように、ついぞ、時間のない闇に屠られることになる(ツァラトゥストラの洞窟を偶像崇拝者たちが占拠したように/洞窟に鍵はかけられなかった)

・部屋に鍵はかけられないとならない
・そして、窒息しそうなタイクツとキュウクツが、襲う  

・だから、鍵を開けそうになる。ツァラトゥストラがそうだったように

ページは割愛

 ツァラトゥストラの洞穴を占拠したのは因縁のある他者で、皆、高級な人間ではあるが、確かに偶像崇拝者である。偶像崇拝者ということは、自らも崇拝される偶像だった(で、ありたかった)者ばかりが、そこから離脱したいために洞穴に集まったのだ。

 窒息して窮屈になるこのシチュエーションは、まるで『精神の考古学』にあった「暗黒瞑想」のようだ。

退屈と窮屈があるのは、既にかけられている自己暗示。これを解き放てば「空」になるが、その代わりに代替品が入ってくる。

まず幻想だろうと思う。自身で幻を作ってしまうのだ。

そのあとは、ここでもあるように亡霊やら生霊やらが入ってくる。しかし、同じ領域にいなければ、意識を合わせなければそれらは入って来ない。

 そして、ツァラトゥストラの「鍵」は常に開けっぱなしである。故に、ツァラトゥストラは時折寝込むのだ。

つまり、鍵とは「捩れ」のことでもある。

捩れがたくさん入ってくるとカラダの具合が悪くなる。

そう、鍵をかけることが出来ないのだ。

もし、鍵があるとするのなら、意識をしない、自身から意思・想いを発生させない。また他者を一人残さず疎遠にすること自体が「鍵」である。

 かなり脱線するが、『精神の考古学』の中の「暗黒瞑想」は何を目的としているのかよくわからなかった。「精神の考古学」の記事で言えばよかったが、その行為や修行に何の意味があるのか。

結局のところ、承認欲求なのだ。修行を完了したという称号を授かるためのように見えた。
その修行をしたという経験は確かに糧となるが、カラダは「色⇆空」を覚えたに過ぎない。

なんちゃって「空」である。

それらを尤もらしく難しく美しい言葉を連ねるだけの説法、学問、経典に憤りを覚える。教えを理解したところで、カラダが理解していないのにも関わらず、そこに存在する、教える者と教わる者の双方の関係にウンザリするのだ。

「暗黒瞑想」を取り上げなかった理由はそれで、一過性のプラシーボ効果に過ぎないと感じたからだった。プラシーボを否定はしない。そこから自己が発見が出来るから。しかし自己慢心に繋がるおそれもあるのだ。

空海とケツン先生は似ているとふと思った。
かなり高い位置ではある。

最澄の透明に近い澄んだ心を対比してしまうのは私だけだろうか。


あれ?何だっけ?

この筆者はどこまで私を「脱」させる気なのだ。
一文読んだだけで、ここまで脱線させる、

この電子書籍は素晴らしい!

本文を鵜呑みにせず、自身で考える力を養わせてくれる。

現代人には、自らの「空」から考える力が必要なのです。

続く。。

のかな








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