『脱現代篇エクリチュールアート 部屋に鍵をかけなければならない』電子書籍-読書感想文②「空」からの思考-
前回の続き。。
冒頭画像の文字は、私がトリミングをしたのではなく、原本表紙がそうなっている。
また、今回も適宜内容をピックアップして、この感想文記事を進めたいと思う。
ツァラトゥストラの洞穴を占拠したのは因縁のある他者で、皆、高級な人間ではあるが、確かに偶像崇拝者である。偶像崇拝者ということは、自らも崇拝される偶像だった(で、ありたかった)者ばかりが、そこから離脱したいために洞穴に集まったのだ。
窒息して窮屈になるこのシチュエーションは、まるで『精神の考古学』にあった「暗黒瞑想」のようだ。
退屈と窮屈があるのは、既にかけられている自己暗示。これを解き放てば「空」になるが、その代わりに代替品が入ってくる。
まず幻想だろうと思う。自身で幻を作ってしまうのだ。
そのあとは、ここでもあるように亡霊やら生霊やらが入ってくる。しかし、同じ領域にいなければ、意識を合わせなければそれらは入って来ない。
そして、ツァラトゥストラの「鍵」は常に開けっぱなしである。故に、ツァラトゥストラは時折寝込むのだ。
つまり、鍵とは「捩れ」のことでもある。
捩れがたくさん入ってくるとカラダの具合が悪くなる。
そう、鍵をかけることが出来ないのだ。
もし、鍵があるとするのなら、意識をしない、自身から意思・想いを発生させない。また他者を一人残さず疎遠にすること自体が「鍵」である。
かなり脱線するが、『精神の考古学』の中の「暗黒瞑想」は何を目的としているのかよくわからなかった。「精神の考古学」の記事で言えばよかったが、その行為や修行に何の意味があるのか。
結局のところ、承認欲求なのだ。修行を完了したという称号を授かるためのように見えた。
その修行をしたという経験は確かに糧となるが、カラダは「色⇆空」を覚えたに過ぎない。
なんちゃって「空」である。
それらを尤もらしく難しく美しい言葉を連ねるだけの説法、学問、経典に憤りを覚える。教えを理解したところで、カラダが理解していないのにも関わらず、そこに存在する、教える者と教わる者の双方の関係にウンザリするのだ。
「暗黒瞑想」を取り上げなかった理由はそれで、一過性のプラシーボ効果に過ぎないと感じたからだった。プラシーボを否定はしない。そこから自己が発見が出来るから。しかし自己慢心に繋がるおそれもあるのだ。
空海とケツン先生は似ているとふと思った。
かなり高い位置ではある。
最澄の透明に近い澄んだ心を対比してしまうのは私だけだろうか。
あれ?何だっけ?
この筆者はどこまで私を「脱」させる気なのだ。
一文読んだだけで、ここまで脱線させる、
この電子書籍は素晴らしい!
本文を鵜呑みにせず、自身で考える力を養わせてくれる。
現代人には、自らの「空」から考える力が必要なのです。
続く。。
のかな