『嘔吐』は、もしかして喜劇かもしれないという気づき
解説:
シャルルに見捨てられそうなリューシーを語る叙述、リューシーを形容するたっぷりな抒情表現、きっと悲劇はリューシーが家政婦だったことだろう。
「私」はリューシーと顔見知りだが、それどころではないリューシーに声をかけようか否か、今起こっている劇的な苦悩は日常レベルの苦悩に鎮火するだろうと、「私」は、「助けない」を心の中で正当化している。そして、「私は立ち去ろう」という結末は、それまで劇的でありながらも淡々とした展開の数々の付箋を、簡単に裏切る。(太字は名場面)
さよならはあなたから言ったそれなのに頬を濡らしてしまうのぉ そうやって互いのことも消してしまうんだねもういいよ 笑って
愛を謳って謳って雲の上
恋と飾って飾って静かな方へ
(太字部分苦しい)
解説:
犬を散歩させに来た黒服の婦人たちが、そのブロンズの巨人を見て、フロックコートとシルクハットとによって、この男が上流社会に属していただれかであることを悟る蓋然性は「悟るのである」と断定するほどのものではないように思われる。
解説:
「薔薇色の煉瓦と広場」という表記はこの日の日記で二度使われているのである。
きっと、彼が型に流し込まれ鋳造されている場面も、犬の散歩をさせに来た黒服の婦人たちの脳裏に思い浮かぶことはないだろう。ブロンズの巨人が、昔、自分たちと同じ問題を抱えていたことも、魔法使いとして出来上がったことさえ…。
『嘔吐』は文学であり、哲学であり、文芸であり、悲劇の芸術作品であり、もしかして喜劇なのかもしれないと私はようやく気づいた。淡々と、且つ、しれっと日記形式で、オールジャンルをぶち込んでいる。素晴らしい!
全てを喜劇に出来る技術は、
全ての学問を超える。という持論。
確実に、筆者は天空にいる存在だ。
文章表現はツァラトゥストラより、
こちらの方が私は好む。
「どうでもよい性」が私と似ている。
サルトルの魅力が押し寄せる。
まだどんな嘔吐性なのかわかりませんが、
出逢いますね、
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