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戦国の世と夢遊病者の世
趙高に断罪された李斯も、獄中からの書簡のなかでみずからの罪状を述べ、帝国をつきはなして回顧している。
その言によれば、秦王政のときには秦の土地もわずか千里四方、軍事力も数十万の歩兵にすぎなかったのに、諸侯をだましだましして六国を工作した結果、六王を捕虜にして秦王を天子にすることができた。
その後は、領土はせまいわけではなかったが、北は胡絡(絡はむじな、匈奴のこと)、南は百越にまで広がり、秦の
ファーストエンペラーの遺産(秦漢帝国)/鶴間和幸 序盤読書感想文
戦時体制の土木事業
二つの戦争の運行のために、始皇三三年(前二二四)から三五年(前二二二)の間に首都圏と戦闘区域の辺地では戦時体制が組まれた。北方ではオルドスの地を囲むように長城の線を整備し、南方では砦の拠点を築いた。さきの霊渠も戦時体制の準備の一環だ。
咸陽から長城へは、できるだけ迅速に軍隊を送れるように山を削り谷を埋めて直道という軍事道路を建設した。北は九原から南は雲陽に至るルートである。
孟子と荀子、性善説と性悪説
「ファーストエンペラーの遺産」より
楚の一地方官吏だった李斯は、秦の丞相まで昇り詰めた。李斯は早くから、楚王を見限り、秦王政を通じて帝王術を実践した。
李斯は自らの意志で荀卿(荀子。本名は荀況、荀卿は尊称)から帝王の術を学んだ。
荀卿は孟子の性善説対する性悪説を主張した儒家の思想家。人間は生まれながらにし悪であるという単純な主張ではなく、人間は生来利欲を好むものであるから、乱れた社会秩序を礼儀
ファーストエンペラーの遺産の570ページに秦代の全部が詰まっているのかも。筆者は司馬遷と同じく史料に忠実にノンフィクを描いているだけなのに、こんなにも面白いのは、趙正に纏った2200年の史跡が面白いのかもしれない。長きに渡り後世の人々をここまで巻き込む実在した人物はいるだろうか。
鶴間博士の秦時代の書籍
を、三冊借りてみた。
見た目的にいかにもエンタメ色強い傾向の↓この本だが、史実に忠実に書かれていて意外と面白い。
日本でいうところの神世の国の時代は中国にも存在するのだと知った。言葉が残されていない以上、言い伝えの伝言ゲームなのだ。
◉三皇から五帝の時代
『史記』によれば、中国にはまず三人の帝「三皇」の時代があったのだという。この三人の帝は人間ではなく、半人半獣の形をした異形の神として伝えら
始皇帝の地下宮殿/鶴間和幸 読了
◉始皇帝陵の椁室
始皇帝陵の地下に棺を収める椁室が設けられたことは『史記』にみえる。『史記』では「三泉を穿ちて銅を下し枠を致す」と記述されている部分である。地下透過層の地層を三層まで掘り下げ、浸水を避けるために銅で塞ぎ、そこを椁室とする。
始皇帝陵の場合は、リモートセンシングの調査によって標室が置かれた空間は東西80メートル、南北50メートル程度(東西方向に長い)。これは椁室を被う墓室の大きさ
始皇帝の愛読書〜帝王を支えた書物の変遷〜/鶴間和幸 -冒頭部分-
晩年の焚書阬儒という事件で、儒者を弾圧し、法治一辺倒で過酷な支配者でもあったという単一的な君主像が作られた。
しかし、その理解だけから始皇帝自身が、詩書(詩経と書経)や、法家以外の諸子百家の書を排除していたというわけにはいかない。法家と始皇帝を安易に結びつけ、法政文書だけを読んでいたとする始皇帝像は偏見であり、誤解である。
始皇帝ほどさまざまなジャンルの書籍を読み政治に役立てていた帝王はい
人間・始皇帝/鶴間和幸 読了
え?趙高が馬鹿ということなの?
秦の時代では、官僚への誹りは穴埋めにされそうだ。だけど、一人で呟いている分には、二人以上の議論でなければ処罰の対象に当てはまらないのかもしれない。
最後の場面で登場した趙高が呂不韋とかぶったが、呂不韋だったらもう少し上手く周りの全てを操っていたのではと思う。
目障りな人物を片っ端から始末さえすれば自分が皇帝になれるという考え方はお馬鹿。。流石に鹿は馬じゃねえだ
秦帝国から中華帝国へ
◉「五徳八神」
・始皇帝は斉を滅ぼしたが、五徳の思想と八神の祭祀を受け継いだ。
「木火土金水の五徳」
「八神」
・天主(臨海の泉の湧く天の臍の地で天を祀る)
・地主(泰山近くの梁父山地主を祀る)
・兵主(斉の西境の地で兵神の蚩尤を祀る)
・陰主(渤海沿岸の三山の地で陰気を祀る)
・陽主(渤海に突出した芝罘島で陽気を祀る)
・月主(渤海を望む萊山で月を祀る)
・日主(成山で日の出を迎えて日を祀