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始皇帝の愛読書〜帝王を支えた書物の変遷〜/鶴間和幸 -冒頭部分-



 晩年の焚書阬儒という事件で、儒者を弾圧し、法治一辺倒で過酷な支配者でもあったという単一的な君主像が作られた。

しかし、その理解だけから始皇帝自身が、詩書(詩経と書経)や、法家以外の諸子百家の書を排除していたというわけにはいかない。法家と始皇帝を安易に結びつけ、法政文書だけを読んでいたとする始皇帝像は偏見であり、誤解である。

 始皇帝ほどさまざまなジャンルの書籍を読み政治に役立てていた帝王はいない。

始皇帝が出会った書物をたどり、また政策の中に特定の書物を見出すことから始皇帝の生涯の歴史を新たにたどれるとは予想だにしなかった。

王から皇帝へと多難な生涯であったからこそ、いろいろな書物に遭遇し、その知識を自らの行動に生かしたことがわかった。

・相邦呂不韋に支えられていた若き秦王の時期は帝王学を学ぶため『商君書』を読み、荀子から学んだ帝王の術を秦に持ち込んだ李斯の言論にも熱心に耳を傾けた。君臣関係の機微を説いた『韓非子』の書もこの時期に熱心に読んだ。

・嫪毐の乱の終結と呂不韋の死後、親政が始まった時期には、東方六国との外交と戦争を進めるために亡き呂不韋の書に傾倒した。

・39歳で六国を征服し天下統一してからは皇帝として改めて呂不韋の書と向き合うことになった。鄒衍の五行と大九州の書によって統一された天下観を自らのものにしようとした。泰山封禅を通じて儒家との関係も強まった。

・45歳からの晩年は自らの死を意識し、方士の書や「老子」、朴筮(ぼくせい)の書と出会い、自らの陵墓の建造にも関心をもった。

 自らの政治や生き方に書物上の知識を活用しようとする意欲が強かったことがうかがえる。波乱の生涯の読書傾向の変化は顕著であった。

『商君書』は秦が商鞅の変法を経て大きく国家体制を変えていったことを知る。史料文献、中国古代史研究の重要文献。

始皇帝は当然読んでいたはずで、『史記』の太史令司馬遷も、同書の読み方は始皇帝とは違っていたはず。

・始皇帝は「見書」、司馬遷は「読書」


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冒頭の数ページを書き写してみたが、ここだけ読んでも、周りの大臣らに支えられていたのは確かだが、始皇帝が暴君ではないことがわかる。


読み始める前に、まず本のタイトルが若干気になって、手に取ろうか少し迷った。「愛読書」は「読書」で良かったのではと感じた。愛と付けると、その人の好みや嗜好のような雰囲気を感じる。最近の春秋戦国〜秦時代のブームに乗せ、若い人にも読んで欲しいという意図があるように感じた。

同じ著者ということで、言い回しや使われる言葉が同じからか読みやすい、しかし前書には出てこなかった、「支配」という言葉があった。

冒頭を読んで、始皇帝も韓非子を読んでいたことと呂不韋の書を読んでいたことに驚いた。

先程の「愛読書」ではないが、始皇帝は常に過去の出来事、史実、自身の身分と相応の学問や経験談、それらの書から知識を取り入れて活用していたのだ。愉しんでいたわけではないと思う。

このあとの本書の展開が私にとっては愉しみです。始皇帝の心の内側がわかるといいのですが。

以前にも同様のことを書いたが、冒頭にあった「単一的」という人間像を誰もが自分勝手に抱いてしまうというミスを冒しているように思う。
あの人は自分にとっては良い人、とても感じが良くて利益を齎してくれる。あの人は自分にとって悪い人、愚痴や傷つくことばかりを言ってくる等、、表面や際立った所だけを「その人」としてしまうのだ。
そこから派生する問題もあり、この風習のようなものは、相手を思う、思慮深さや包括力がなければ解決出来ないと常に感じる。


◉活学メモ
1.行動も知識もない「虚学」
2.行動はないが知識はある「死学」
3.行動はあるが知識がない「実学」
4.行動も知識もある「活学」

本書とは関係ないですが、勉強している中で、目に入ったのでメモしました。
始皇帝は活学。私は実学止まり。
私が実践している手探りしながらの生き方。その手本となる文献や書物はどこかにあるのだろうか。




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