見出し画像

東京にも雪は降る_1

天気予報は外れたみたいだね。霙は雪に変わることなく、雨になった。
私が小学校に上がる前くらいの年の頃は、雪はもっと身近な存在だったけどね。気候変動のせいか、珍しいものになってしまってる。

大学生になって、都内でひとり暮らしを始めた。大学2年だったかな。
それまでは、生まれた街の半径5キロ圏内が自分の世界のすべてだった。あの頃はネットもなければ携帯だって持ってなかったしね。自転車で行ける範囲が限界。それが一変した。原宿に渋谷、有楽町、銀座、青山に外苑と……付き合う人間が変われば行動範囲も拡がっていく。それは純粋に楽しかった。ドキドキしたし、変わっていく自分を好きになれた。夏は海に花火、冬はスキー、イルミネーションって感じで、デートらしいデートも何回かしたね。どれもいい思い出。年を経て昔の記憶は薄らいでいくけれど、思い出すたびに多少の美化を重ねているけれど。心の中にほんのりと蝋燭の火が灯って、じんわりと温めてくれる。あの頃は、大人になった私がこんな気持ちでしみじみと過去を振り返っているなんて、思わないよね。

―― 2月15日
同じ学部の男の子に、これから外に飲みに行こうよと急に誘われた。
特に断る理由もなかったし、冬休みに入ってから人と会う機会も減っていた。待ち合わせはいつもの居酒屋でいいだろうと思った。学校から歩いて1分、古びた暖簾に「のざわや」と書かれた居酒屋。そこでは座敷の8人掛けの卓に通されることが多かった。だいたい後から合流する仲間がひとり、ふたりと増えて、1時間も経てば酔いも回り、他学部の子と仲良くなって席は埋まる。学生御用達の安くて、ほどほどに上手い店。その男の子とはそこでよく飲んだ仲だった。

『いやぁ、今日は場所を変えてみようと思うんだけどさ』
『御茶ノ水って、どう?』
―お、御茶ノ水!?

御茶ノ水は普段まったく縁のない土地だ。
御茶ノ水。お茶の水女子大?あ、違うか…。ビジネス街っぽい気がする。
「全然いいけど、わたしは詳しくないよ?」
『うん、大丈夫。検討つけてるんだ』
それならば安心、待ち合わせは20時。急いで支度して家の外に出た。

風が強く吹いている。ビュー、ビューッという轟音が濃紺に染まった夜の町に響いていた。
これは、いつもよりずっと寒いなぁ…。
帽子もかぶってくるべきだった。ウールのマフラーを鼻先まで上げてみたが意味がない。なんとも寒い。風が凍てついている。氷の風だ。早く電車に乗りこんで暖を取りたい。
8分間隔でやってくる京浜東北線が恨めしかった。早く…早く来て…!

車内の暖気が芯から冷えた足もとをジワワワ~ンと解かしていった。暖炉にあたってウトウトと居眠りをする犬の気持ちがわかる。気持ち良さと安心感で、ホゥッと普段よりも少し大きくため息をついた。鼻と耳がジンジンして痛い。しばらくするとむず痒く感じてきた。

真っ暗闇の中、電車は長い鉄橋の上を走る。ガタン、ガタタン。一級河川の大きい川が眼下に広がっているはず。昼間ならよく見えるのだ。ただ、夜間に見る車窓はいつもの色彩と異なる。黒い闇。水面に映えるのは街明かり。ユラユラと揺れていた。
暖気が身体を癒しきって、そこでやっと気が付いた。
今日は、世間でいうところの祝日。いつもより乗客が少ないわけだ。……いや、これは少な過ぎでしょう。


どうして今日は御茶ノ水なんだろう。

彼はいま、どこにいるんだろう。どこから私に電話をかけてきたのか。こんな寒い日の夜。強く冷たい風が吹きすさぶ東京の街のどこか。
……早く、駅に着きたい。彼だって、寒い思いをしているに違いない。

20時過ぎに電車がホームに到着した。開かれたドアから見えたのは、白くて細かい、ほわほわとしたもの。雪が降り出している。
( やっぱりなぁ~ そりゃあ この寒さだもん )
急いで階段を降りると、改札前に彼がひとり立っていた。
白のニット帽、グレーのロングコート。コートの襟に顔を埋めて目をつむっている。ポケットに両手を入れて、肩をすくめて。私を待っている彼の姿。

「お待たせー!」
『おー!久しぶり。急に誘って、しかも寒いし。悪い。』
「うん、なんとか。早くお店に入ろう」
寒くて寒くて、思考は上手くまとまってくれない。歩き出してから普段と変わらない会話になっていた。単位取得はどうだ、レポートはもうできたかとか、次年の専攻科目はどうするとか。彼の話に相槌を打ちつつ、途中から私は頭の中でまったく別のことを考えていた。

改札にいた彼は、いつもの彼と雰囲気が違って見えた。なんでだろう。
服装はいつもと同じ感じ、ニット帽で隠れているけど、髪型が変わったわけでもなさそう。声の調子も普段よく聞くのと変わらない気がするのに。
御茶ノ水なんて知らない街に来たからかもしれない。夜だし。なにせ、今晩は雪が降っている。止む気配はない。

そういえば、呼び出されてふたりでこうして歩くのは初めてだった。
授業用の教室から学食までの数分。部室から正門までの数分。並んで歩いたのはそれくらいだ。いまこうして、彼と知らない街で、知らない店に向かっている。そのことが、私にはどうしても不思議に思えてならなかったんだ。

『あ、ここだ』
通りの右手の角にある、一軒の店を彼が指差した。
オレンジ色のバックライトが看板に刻まれた英字を浮かび上がらせている。
そこは、確かにBARの入口に見えた。
私は、そのオーラに圧倒されて押し黙ってしまった。BARは大人が行くものだと―私は考えていたわけで、ただの学生がしれっと入っていいものなのか。少しばかり、恐怖を覚えた。
「っええー!? ここってバーじゃないぃ?」…声が上擦ってしまった。

『うん、そう。入ろうよ、寒いし』と言って、彼が先に階段を下っていく。何がなんだか、という思いで後ろに続いて進むしかなかった。階段を降りた先に小さく入口が見える。が、店内の様子はまったくわからない。
「ギィィィッ」と、木製の扉が開くときの重い音が頭上で鳴った。私はBARにやってきてしまった。

<つづく>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?