夢一夜 #1

バレンタインとカセットテープと掴んだ髪

 殺さなきゃ、殺さなきゃ。
「Valentine, my decline.  Is so much better with you…」
髪を鷲掴んだ左手が震える、すみれ色の長髪が蛇のように絡む。

 早く、早く、早く。
「Valentine my decline. I'm always running to you….」
少女は直視できなくて、切れた蛍光灯を見上げながら、止めどなくあふれる涙を首に感じながら、右手をぎりぎりと何度も何度も動かし、荒い息をあげ、膝で背中の痙攣を押さえつけ――やがて軽くなった感触に、ついにやってしまった事を悟り、左手を持ち上げ、リノリウムの廊下をよたよたと歩き、トイレの床にどちゃりと首を放った。
 タイルの床が寒々しく、右手にある鏡は曇っていた。

 レンガ道とオレンジ色の街灯、白と青と赤の旗、あの人の優しい声。
もう数刻前の自分には戻れない。この手にははっきりと肉を切りおとしたときの音が刻まれている。なぜそうしたのか分からない。なぜあんなに美しい人たちを殺したのか分からない。
 あの人たちはいつも笑っていた。楽し気に靴を鳴らし、鼻歌を歌っていた。くるりと回ると、水色のスカートは無重力。
 何もかも平和で、悲しみなどなくて、怒りなどなくて、綺麗で、清廉で、真っ白で、絵本で、仕掛け扉で、鮮やかなミニチュアで、平たくて、丸くて、優しくて、だから――
恐ろしくて、気味悪くて、汚くて、佞悪(ねいあく)で、真っ赤で、小口の黒い本で、鉄扉で、セピア写真で、汚泥から掴み取る石に、そのごつごつした手触りに、硬くて冷たい音に、刃を立てて確かめたかった。確かめたかったのだ。そうだ、震えが止まらない、確かめたかったのだ、私は確かめたかったのだ、だって、世界がそのようなはずがない、カセットテープでずっと聞いていたお話の終わりは何だっけ、今はそんなことどうでもよくて、でも、あれは一匹の猫が二匹のねずみを食べちゃうお話で、確かハイドンのどれかをお話にしたくて、でもそれを分かってくれるのはあの人だけで、この世界にそんなお話は許されなくて、けれどあの人は面白いと言ってくれて、録音してくれて、チョコレートと一緒にカセットテープをくれて、夕方の街に流れるあの声よりもっと「生きている」声で、私のお話を読んでくれて、――

 いま、がたがたと震えながら、ひりつく喉の喘鳴のなかで、カセットテープをずっと聞いている。
 殺したのに、三人も殺したのに、グレーの瞳と、桃色の爪と、すみれ色の髪を、真っ赤に汚したのに、なぜこの世界はいまも柔らかい?温かい?殺したのに、三人も殺したのに、なぜまだ私は救われる?
「わたしが」
「わたしが、さんにんを、ころしました。」
「わかりません。」
「そうしなきゃとおもって。」
「わかりません。」
「わかりません。」
「わかりません。」
「でも、そうしなきゃとおもって。」

 私の処刑はいつ行われる?この世界でざらざらしているのは私だけなのに、なぜ消されない?
 それが罰なの?綺麗なものの中で恥辱にまみれることが罰なの?でもそれは、私の心の内から生まれたものであって、罰じゃない。誰か早く気付いて。私を糾弾して。打ち砕いて。壊して。終わらせて。

 ハンカチの赤い染みは、自らの存在に罪を感じるでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?