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女子校を飛び出して感じた、ジェンダーの違和感

近年、ジェンダーの認識について考えさせられることが多くなってきたように思う。ここではあえてジェンダーの何が正しくて何が間違ってるということは論じない。ただ、10年間を女子校で過ごした私が感じてきたジェンダーについてを、主観のままに書き残しておこうと思う。

私は中学生~高校生までを、中高一貫の女子校で過ごした。当然、共学への憧れはあった。しかし、「垢ぬけない・芋っぽい・ガリ勉」の私が共学にいたところで、少女漫画のような華々しい学生生活は送れなかっただろうからこれはこれで良かった。

高校3年生になると、みな進路の最終決定を迫られる。私もご多分に漏れず、これから進む未来のことには少なからず迷いがあった。姉が進学していたから、自分も就職ではなく大学へ行ってみたい。でも、大学はどこにするか?家から近くて名前もそこそこ知られている大学に行くか、家からは遠いけど学びたいことが学べる女子大に行くか。

前者は学歴というステータスを重視している父のお勧めでもあったが、同時に共学であることの魅力もあった。しかし、それを選ばなかったのは学びたいことを学べる大学に行く、ということを1番に考えていたから。

かくして私は女子大生になり、中高含めて10年間を女子校で過ごすことが決まった。とは言え、外の世界への興味は尽きず、交流のある大学(共学)のインカレサークルに加入してみた。そこにはずっと憧れていた”共学の学園生活”が存在していた。私は新鮮な感覚で自分の立ち位置を認識する。重いものを運ぶ時は男子が率先して運んでくれる、エレベーターが混み合う時は女子を優先的にのせて体力に自信のある男子は階段を使うなど、明確に「女」か「男」かという区別が存在しているのだ。

それは私にとってなんとなく歯がゆいような感覚でもあり、どこか嬉しい感覚でもあった。「男も女も関係ない、重たいものなら私だって運ぶよ!」という気持ちと「自分も女扱いしてもらえるんだ~」という気持ち。一方で、恋愛ではなく純粋に友達作りをしたかった私は、女というだけで線を引かれているような寂しさも感じていた。


ある日、決定的な出来事があった。


「サークルの飲み会に女子が足りないから、来てもらえないか」
同期の男の子から、連絡がきた。私は当時、なんとなく気が乗らなくてその飲み会は欠席表明していたのだが、頼まれたなら仕方がない。二つ返事で参加を了承した。しかし、その後ほどなくして、自分の流されやすさを後悔することになる。

飲み会当日。卓に着くと、急遽飲み会に来てくれたことにはじめこそ感謝されたが、それ以降全く話を振られない。いや、もちろん私は積極的に話に入ったり自ら話題を提供したりしていたのだが、なぜかすぐに男子たちだけで盛り上がって自分が入るスキマがない。どんなにガツガツ頑張っても無理だ。疲れたな、頑張るのはもう辞めようと思ってようやく気づいた。そうか、要は華が欲しかっただけか、と。

それ以来、私は「女性=華」という考えが苦手だ。もちろん、女性は華であってもいい。だが、女性である以前に1人の人間だ。そこに華という役割を勝手に負わせ、「居てくれるだけでいい」という魔法のような言葉で本当に居るだけにさせられるのは非常に寂しかった。

「女性は華。居てくれるだけでいい」
これは、本当に不思議な言葉だ。私は不快に感じたけれど、それを好意的に受け取れる女性だっていると思う。話がうまくできなくても、面白い芸がなくても、存在そのものが人に必要とされているのだから。それを良しとするかは、人それぞれだろう。

この日から、日常のいたるところになんとなく違和感を感じ始めた。ある時はYouTubeやニコニコ動画を視聴している時に。「男ばかりの動画では華がないから、もっと女性ゲストを呼ぼう」と無邪気に語る演者たちを見ていると、もやもやとしてしまう。彼らに悪気はないのだ。しかし、本当に女性が置物のようになっている動画もある。華を添えたいがために女性を画面に映してはいるものの、ほとんど話も振られない。そもそも意見を求められたり、しゃべる機会が与えられていないのだ。その状況を、女性自身を含めた全ての演者が納得しているのだろうから私がとやかく言う問題ではない。だが、主観としてそれが画面映えのためだけに女性を配置しているように感じてしまうのだ。

またある時は、男友達の発言の節々にそれを感じることもあった。就職活動を始めた時、私は銀行を中心に選考を受けていた。そのことをとある男友達に話すと、「女子はとりあえず笑ってれば受かるから余裕っしょ」と言われた。笑顔だけで受かるなら誰も苦労しないだろ!そう心の中でツッコミを入れていた。

結局、私は今も違和感とともに生活を送っている。森元会長の発言でジェンダーについて大きく取り上げられ、「年配の男性には同様の考えを持つ人もいる」なんて意見もあったが、私に言わせれば若者でさえジェンダーの洗脳に染まっている。

私はただ、人として尊重されるべきことが当然のように尊重されてほしいと願う。男性だから得意なこともあるし、女性にしかできないこともある。男性だから配慮してあげた方がいいこともあれば、女性だから配慮してほしいこともある。性の違いは確実に存在していて、男性らしさや女性らしさというものも、確かにあると思う。だけど、それをどの程度もっていて、どう使いたいかは人それぞれだ。女性だからこうでしょ?という決めつけは、男女の区別なしで見た時の人としての内面を無視していると思う。その内面を見てもらえない虚しさが、ジェンダーでくくられたときの寂しさの正体だと私は考えている。

私は違いをないものとは考えない。持っている身体や心のつくりは違っても、違いを事実として認め合い、それを超えた本質の部分で思いやり合える社会だったらいい。そう思う。

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