見出し画像

毒親がどうこうとか、どうでもよくなっちゃった。

まずはご挨拶です。
私の独り言のようなnoteをご覧いただき、フォローしていただき、本当にありがとうございます。
誰かの何かに役立ったり、共感、共鳴してもらえるのなら、それほど嬉しいことはありません。

不定期の、気分次第のnoteですが、これからもよろしくお願い致します。


では、本題です。
私は1年ほど【毒親】に深く深く悩んでいました。
正確に言うと、悩んでたというよりも、恨んでた、です。

いろいろと説明するのが面倒なほど(笑)両親と精神的・物理的ないざこざが1年ほど続いていました。

それが、何がきっかけなのかイマイチ分かっていないのですが、どうでもよくなりました。

かといって、「両親に感謝で一杯!」なんてのもありません。
一番近い表現はきっと、
『親』と『子』という感覚が薄れた。
でしょうか。

現実的に『親』と『子』なのですが、感覚的には《彼らはただ、そこにいる》という感じ。
親だから大事にしなきゃとか、
親だから感謝しなきゃとか、
親から自立しなきゃとか、
なんかそういう、今までずっと抱いていた思い込みやエゴが無くなったようです。

私はずっと、『親』と『子』という関係に特別な何かを見出そうとしていたのかもしれません。
だから、「愛してもらえなかった」とか不足を見つけ出していたのかな?

両親のちょっとしたことにイラッとしたり、
両親の嫌だなと感じる点に、ついフォーカスしてしまったり。
そんな1年を過ごしていました。


が、それも一周回って、どうでもよくなったのでしょう。


いつの間にか、
他責思考が自責思考になり、
他人軸が自分軸になり、
自分以外がどうでもよくなっちゃって。
(息子は別枠)

両親と自分を今までは無意識的にも意識的にも重ねていたけれど、完全に切り離せるようになったようですね。
(なんだか他人事)

精神的に自立したというか、
「私」が立ち上がった、というイメージです。


そんな意識/認識に変わって、
じゃあ現実がどうなったかというと。

両親に対して何の苛立ちも憎しみも湧きません。
一緒にいることが苦痛だったのに、先日は数時間ほど一緒に過ごしても不快感がありませんでした。(普通って感じ)

以前はほんの数分一緒に過ごすだけで、嫌な部分を何度も見せられていましたが、それがありません。

そういえば、両親の言い争いも最近は聞こえません。
(我が家は二世帯住宅)


不快が消えて、快になったの?
と聞かれたら、そうではありません。
ただただ、気にならなくなった、というだけ。

両親と自分を切り離したので、離れているものに注目してないだけです。
注目してないから、気にならない、目に入らない。


両親との関係が良好になったわけではなく、
私の内側(精神面)がひとつ整理されただけ。


で、この毒親問題からの解放?整理?によって、
《執着を手放す》ということに十分な理解と体感を得られました。

今までも執着の手放し案件はあったけれど、これほどまでに「どうでもいい」という感覚になったことはなくて。

新鮮というか、こんな適当な感じなんだ、と思ってます。


執着が「どうでもいい」になるまで何をしていたか、というと。

自分の意識や認識に目を向け続けていただけです。
そしたら、自分の内側に集中せざるを得ない状況が次々にやってくるから、両親にフォーカスしてられなくなって、どんどん内側が炙り出され、整理され、自分自身のいろいろでいっぱいいっぱいになって、気付いたら「両親のことなんてどうでもいいや」という心境に至りました。

自分に集中していると、自分以外なんて本当にどうでもよくなっちゃう。
自分以外に意識を向ける余裕がなくなるから。


私が私を満たすこと、幸せにすることに集中していたら、誰か何かによって自分を不快にすることなんて本当に無駄すぎる。

誰か何かによって自分を不快にするくらいなら、ご飯をいっぱい食べたり、ラベンダーティーを飲んだり、スマホでゲームしてた方が幸せだし、楽しいし、時間を有効活用できるし。

あとは、誰か何かによってモヤモヤした時間を過ごすくらいなら、ノートにそれらを書き出していち早くモヤモヤを消化したほうがいいし。
書いていくと、どんどん方向が変わって自分の内側が見えてくるから、結局プラスに転じたりするし。



私はこれまで長らく、
自分を不快の立ち位置に長く居座らせるようなやり方をしておりました。
感情は感じきる、を勘違いしていたのでしょうね。

感情を感じきる、は不快に身を起き続けることじゃない。
ネチネチとズブズブと沼にハマり続けることじゃない。

辛いー!悲しいー!しんどいー!むかつくー!
と感情を出したあとに、そこからその原因となったことを憶い出したり、振り返ったりすることじゃない。


怒る、泣く、悔しがる、など感情を出しきることが「感情を感じきる」ことであり、それが終わったら速やかに立ち位置を引き上げればよいのだと思う。

ネガティブに居た方がラクだからと、ポジティブになること(というか快に戻すこと)を怠っていたのです。私は。


自分で自分をネガティブに居座らせてたわけだから、
現実が不快になるのは、そりゃー当然なのよ。


気分や感情の浮き沈みはある。
体調や天候で簡単に変わる。
それ自体はOK。


だから・・・

どんよりしている
その今の自分を
少しでも心地良く過ごせるように
創意工夫してあげるのが
自分を愛することだし
自分軸だし
幸せな人生への近道だよね
と思う。


そういうことを日々繰り返していると
毒親なんてどうでもよくなるし
自分以外への執着は薄れていくし
人生の幸福度が上がっていくのよ、きっと。


という話を読んで下さったみなさんは、
今、これからの時間をどう過ごしますか?

私は本日フリーなので
これから格安で買った紅はるか(さつまいも)の醤油バター煮を作ります。
さつまいも大好き♡
スイートポテトにしようか、大学芋にしようかと考えてたけど、こっちにした。
口に入れる度に「美味しい、幸せ」が広がるから。

完成したら、お芋をつまみながら、あったかいもの飲みながら、読書をする。

幸せは創っていくモノだな、と最近本当に感じてますよ。
っていうか、創れるんだ!って感じかな。



余談。

ちなみに夕飯は、
真アジの開きを買ってあるので、フライにするの。
絶対美味しい。
お味噌汁は、ネギをたーくさん頂いてるのでネギまみれにして、ご飯はお焦げ多めに炊いて(うちは土鍋で炊くから)、あとはなんか適当に用意します。


なんだか色々と話が飛んで、まとまりがない内容になったけど。
(というかいつもそうだけど)
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


幸せって、誰か何かによってもたらされるものだって思ってた、本当に。
きっかけとか、チャンスとかは、自分以外からもたらされるでしょう。
だから、自分では得られないモノだって思ってた。

でも違うんだな、と。

自分で自分を幸せにする努力や工夫をするからこそ、幸せを呼び込む力が強くなって、きっかけやチャンスがやってくるって今では思える。

自分自身で「幸せ・豊か」を創り出せるようになっていくから、現実も「幸せ・豊か」に変化してゆく。

最近の私は、ほんの些細なことで幸せや感動を感じている。
それこそ、ご飯が美味しいとか、
お風呂で身体が温まって気持ちいいとか、
誰かの笑顔を見れたときとか・・・。

嬉しい、幸せの閾値が下がった。
すぐに嬉しい、幸せを感じられるようになった。
いいことだと思う。


さて、芋を煮るか・・・。

こちらの記事が『気付き』としてお役に立てましたら、サポートいただけますと大変嬉しく思います。皆さまからのサポートは、私がより一層「生」を充実させるエネルギーになると共に、皆さまに更なる還元をしていく原動力となります。 サポートは私と皆さまの『エネルギーの循環』です😊