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私の決断はあってる?教えて👂ドラえもん。

写真は、全く関係なしですwww

主人がくも膜下出血で左半身麻痺となり、私は介護する側になりました。
妻、回復期で働く看護師、介護者の3つの立場で感じた事を綴っていこうと思います。

主人は、2018年9月26日くも膜下出血になり左半身麻痺となりました。
誰でもそうだと思うけど、

『旦那がくも膜下出血になって、左半身麻痺になるなんて~。しかも、高次脳機能障害も発症するなんて~』

と、2年たった今でも思う。
主人がくも膜下出血になったのは、特殊で。
会社の健康診断でたまたま受けた脳ドックで未破裂の脳動脈瘤がみつかりオペとなりました。
本人は、クリッピングを希望しましたがDr.の判断にてコイル塞栓術になりました。
瘤は4ミリ以下。

なぜ?
どうして?
オペなんてしたかな~
と、今でも思う。
『時を戻そう~』
って、言いたい。

オペの日は、今だに鮮明に覚えてる。
オペ室(造影室)に向かう道のり→点滴スタンドを持って歩いていったの。2人で話ながら。
造影室に入るときに『頑張ってねー』と、軽く言って扉を閉めた。
オペ待機場所を変更されたこと→何かあったな?と、ピンときた。
待機中のモヤモヤ感
待機室にきた看護師が『ここにいたんですか?探したんですよ』と、言ってきたこと→いやいや、ここで待機するように言ったじゃんって、顔に出てたな。
『コイル塞栓術途中で血管が破れくも膜下出血となりました。』という事を冷静に聞いたこと。
血腫除去のためドレナージをすること。
ドレナージするために、同意書にサインをした。

説明は、冷静に聞いた。
泣きもしなかった。
なんでだろう?
何故か、泣いたら負け、パニックになったらやられると思った→何に?(笑)

でも、今思えば
主治医に『オペ中に出血してもオペ中で機材もあるし、大事にならない。』って、説明の時にいいましたよね?と、詰め寄れば良かったと思う。
泣き叫び、感情剥き出しになれば良かったと思う。
なぜなら、それ以降『冷静な人』と、思われ感情の捌け口が無くなってしまったからだ。

それから、主人に逢うまでどれくらいかかったのかなー。
ICUに入る前に
『脳圧を計るために少し開頭します』と、言われた。
オペ室に向かう道すがらで言われ、その時見た夫の姿は今でも脳裏に焼き付いてる。

lCUに入り少しだけ面会出来たが時間制限もあるし、処置もあるしで、顔だけみて直ぐに出た。
たまたま、ICUの看護師が同僚の旦那さんで面識があったので後をお願いした。
同僚の旦那さんにも、ICUの師長さんにも『冷静な妻』と、思われたに違いない。

その後、脳卒中後のスパズム等を管理するためにICUとHCUにお世話になることになった。

時間が立つにつれ、
セカンドオピニオンに見てもらわなかったこと
ドレナージのサインをしたことって、合ってたのかな?って、考え始めた。
2年以上過ぎた今でも考える。
夫は、
『もし、僕に障害が残る事があったら迷惑かけないように殺して欲しい。延命もしない。臓器も目以外は提供する』と、話してた。
もし、ドレナージで血腫除去や脳圧のコントロールをしなかったら苦しまなかったのかもしれない。

これは、急性期を体験した方ならみんな考えるかも。

岸田奈美さんもお母さんが入院し、オペしたときの事を書いてた。
『あの時に決断は良かったのか?間違ってるんじゃない?』って。
この本を読んで私の気持ちを代弁してくれてるーって、涙が止まらなかった。
今も書きながら泣いてる。

いつか、あの時の決断が間違ってなかったって思う日が来るように乗り越えていかなきゃね。

現在、夫は施設に入所中です。
いつか一緒に暮らせるようにリハビリを頑張ってもらってます。
私は、一緒に生活出来るように環境を整えないと。

今回は、くも膜下出血になった経緯やオペ時の私の葛藤などを書いたので次回は、ICU、HCU、急性期病棟での出来事を書いて行きたいと思います。

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