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痛みの先まで歩むとき、あなたに静寂が訪れる

歩き方はそれぞれ自由で良いし、気の向くままで良いと思っている。
けれども、もし僕が「どんな歩き方をしたら、ぜんさんの言うような自分自身の内面を見つめ、自分の声を聴くことができますか?」と訪ねられたとしたら(そんなこと聴いてくる人はいないけれども)、ぜひ試してほしい僕のおすすめの歩き方がひとつある。

それは「痛み」を感じながら歩く、ということ。

歩けば疲れる。太ももや腰のあたりが段々重くなって、次第に痛みを感じるようになる。膝や関節が痛み出すこともあるし、足の裏がすれてヒリヒリとすることもある。
普段の歩く会では、「痛みを感じたら無理はしないで」と、言うようにしている。怪我して欲しくないし、怪我を悪化させてほしくもない。

でも僕が一人で歩くときは、実は痛みを感じ始めてからが本格的なスタートだと思っている。

大体3~4時間歩くと軽い疲れと痛みがやってくる。6時間くらいで太ももが張って、関節が心配になってくる。足の裏がすれてくる。それでも歩く。8~9時間、そのくらいになると、痛みはあるのだが、それが意識の中心から周辺へと遠のいていく。腰から下にエンジンがついているような感覚になり、足が自動で前へ前へと動きだす。
「痛いなあ」「疲れたなあ」などと繰り返し頭の中を巡っていた思考は、その時自然と止まっていて、前へと歩いている自分の感覚だけを感じているような静寂が訪れる。
そういう時だ、静けさの中にふっと何かが浮かんでくる。それは言葉かもしれないし、言葉になっていない何かかもしれない。耳を澄ませなくても、それは自分の中から湧き上がってくるし、いま歩いている空間から身体に入り込んでくると感じることもある。

何が聞こえるだろうか。人それぞれ違うのだろうけれども、僕はこの「痛み」の先まで歩くという経験を通じて、「歩く人になる」という自分の生業を見つけた。
痛みの先まで歩いてみると、それまでは考えも及ばなかったメッセージが、突然湧き上がってくる。
それは言葉ではなく、思考でもなく、強い感覚を伴うから、信じるとか信じないとかそういう領域の話ではなくなっている。
「そうだ」としか言いようのないことがもし現れてきたならば、それは間違いなく、自分の声だ。

なぜそういうことが起きるのか、正直わからないけれども、痛みが普段無意識に抑え込んでいる野生の身体感覚を呼び覚ましているのではないかと、僕は考えている。

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痛みを観察することも大事だ。

歩きながら痛みを観察してみる、痛みの出所を探り、痛みの声を聴いてみる。痛みと向き合い、そして受け入れてみる。

いま僕たちは、なるべく痛みを見ないようにしている。
痛み止めや熱冷ましを飲み、本来そこにあるはずの「痛み」を強制的に消すことに慣れている。

でも本来、「痛み」は身体のメッセージだ。
どこがなぜ痛むか、それに向き合ことで僕たちは自分の体の不調を知ることができる。そうして初めて、自分の身体を正しくいたわってあげることができる。
薬は対処療法だが、それは穴の開いた虫歯を治療せずに上から蓋をかぶせるようなものではないかと思う。その瞬間はごまかせても、内側はどんどん悪化していってしまう。
そして突然大きな病になったり、大きなけがをする。

普段から「痛み」の声に敏感になるには、痛みを普段から感じるようになれば良い。痛みのありか、その変化に敏感になって、耳を傾ける感覚を鍛えておくことが大事だ。

僕にとってそれは、痛みの中で歩くことだったりする。
小さな痛みにもあえて敏感になって観察してみると良いのではないかな。

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この「痛み」の声は、実は僕が「歩く人」なるときに一番最初に気づいたことだった。
それはひとつのきっかけだったと言っていいかもしれない。

でも、これまではあまり語ろうと思っていなかった。
それで怪我したらどうすんの? 怪我が悪化したらどうすんの?という声もあるだろうし、他人に勧めるようなことではあまりないと思っていたから。
それは今でも変わらないので、これを読んだ方も、どうか無理だけはしないでいただきたい。

それでも、あえて書くことにしたのは、先日参加したとある方の会で聞いた、ラコタ族というインディアンの話と、僕が歩くことから学んできたことがまっすぐに繋がったからだ。

その一つが「痛みの先まで行くと見えるものがある」ということだ。

ラコタ族の痛みは儀式によるもので、ロープのついた太い木の棒を二本、両胸に突き刺して、それを支えに木にぶら下がるという想像するだけでも悶絶しそうな過酷な痛みだけれども、
その儀式が目的としていることは、要するに「痛みの先にあるものを見てきなさい」ということなのだ。

その話を聞いて、僕はすぐに理解できた。
僕自身が歩く中で「痛み」について経験したことと同じだったから。

歩く痛みは、胸に木の棒を刺す痛みに比べれば優しいものかもしれないけれども、「痛みの先まで歩いたところにある静寂」を感じることはできる。
痛みの質は違えど、たどり着く先は、おそらく同じだ。
痛みを受け入れてみると、心の中で何かが湧き上がってくる。
静寂の中でしか湧いてこない何かがある。

僕は歩くことが、ラコタ族の儀式と同質の経験を導いてくれることに驚いたし、とても感動した。

実は、僕はこの会を自分で見つけて参加したのではなかった。
僕が(勝手に)人生のメンターとしている人が、先日久しぶりに声を掛けてくれたと思ったら、この会への参加の誘いだった。会は二日後だった。
「ぜんさんの「歩く」は、きっとこの会の内容と近いから、ぜひ参加してほしい」と言われて、僕は即決で参加を決めた。

何かに導かれるようなタイミングというものがある。これはそうに違いないと、僕は何か確信めいたものがあって、その確信は当たっていた。
「痛み」以外にも、僕が歩くことから学び経験し受け取ってきた多くのことが、ラコタ族の話ととても似ていた。

痛みの先まで歩いてみる。
これはある意味で原始的な行為なのかもしれない。
でも、もし本当に自分の声を求めているのならば、試してみる価値はある。

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