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土倉 庄三郎



奈良県、川上村( かわかみむら )の車道を走っていると、






バス停があって、







銅像が建っていました。

この銅像の主は、土倉 庄三郎( どぐら しょうざぶろう )という人物でした。
江戸時代末期の1840年に生まれ、明治・大正時代を生きた方で、この地方の大山主として、現在の吉野林業と呼ばれる造林法を生み出した人でもあります。

吉野林業は、超密植と多間伐を特徴としていて、現在の日本中で見られている多くの杉や檜の植林は、この造林方法で施業されています。


昔の林業は日本を代表する大産業で、この土倉 庄三郎さんも莫大な財を築き、その財力は当時の四大財閥を凌ぐほどだったと伝わっています。

林業で大儲けをした人だけだったら僕はそれほど感じ入らなかったのですが、
土倉さんが凄いのは、土倉家の財産を三等分し、それぞれを、国・教育・事業に投資するという信念を持たれていたようです。

明治3年に政府から水陸海路御用掛に任命されて、
吉野川の浚渫( しゅんせつ・港湾や河川の水深を深くするために水底をさらって土砂などを取り除くこと )や川幅を広げる工事をしたり、
たくさんの道路を新たに造ったり整備を行いました。

また、同志社大学や日本女子大学の設立にも多額の寄付をされました。



さらに驚くべきなのは、吉野山への土倉さんの大貢献です。

修験道の聖地だった吉野は、江戸から明治に時代が変わった時の廃仏毀釈の流れに抗うことができず、無数にあった堂宇は取り壊され、大切にしていた仏像も燃やされてしまいました。

山中をおおっていた桜も全て伐って、当時は現金価値が高かった杉や檜の植林にしてはどうかと大阪の商人にもちかけられ、吉野山のリーダーだった方はそれに応じて現金を受け取ったようです。

それを知った土倉さんは、すぐに買い戻すよう吉野山のリーダーに言い、
吉野山の買値だった500円( 現在の価格で約1000万円 )を吉野山のリーダーに渡したことで、現在の吉野山の桜の大群落は守られました。





「 将来は、世界中の人々が吉野へ来るようになるだろう。
その時のためにも、この吉野山の桜は残しておいた方が良い。」


土倉さんの言葉が残っています。









銅像が立っているのは、土倉さんが生涯過ごした家があった所で、


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