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うさころ旅立つ

2021年10月15日金曜日早朝、長年三浦の相棒として共に大森に暮らしたうさころがこの世を去った。

夏前ごろから内臓に腫瘍ができて、お腹が膨らむ一方で脂肪や筋肉は落ちて痩せ細るばかりだった。13歳という年齢もあり、手術をすることもできずただ様子を見守ることしかできなかった。冬は越せないだろうとは覚悟していたが、思っていたより随分早い旅立ちだった。

この一週間はご飯もろくに食べられず、立ち上がるのも辛そうにしていた。当日は午前3時には生きているのをワイフが確認していたが、その後7時過ぎに起きるともう息を引き取っていた。体はまだ暖かく、まるで眠っているかのような表情だった。

死に際し思うことはいろいろあるが、まずは楽になってよかった。よく晴れた気持ちのいい日に、本当に安らかな表情で逝くことができた。

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うさころは2008年6月21日生まれの血統書つきのオスの柴犬だ。

学生時代の親友Tが当時付き合っていた女の子におねだりされて飼いはじめ、彼女が「うさころ」と名づけて可愛がっていた。

Tはペット禁止のアパートなのにもかかわらず平気な顔をして飼い続け、ただしつけだけは抜かりなく、むやみに吠えたりしないように賢く育て上げた。

その後Tは彼女と別れたが、うさころは彼のもとに残った。

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(写真:Tが飼いはじめて間もないころのうさころ)

時は過ぎ、大学を卒業した三浦は島根に移住した。移住生活が2年目に入った2012年の夏、Tから連絡があった。

「カタールで働くことになったからうさころを預かってくれないか?」

突然の依頼に戸惑いはしたが、他ならぬ親友の頼みなので会社に相談して当時住んでいた社員寮で飼うことにした。

そんないきさつで東京からうさころが空輸されてきたのは2012年9月5日のことだった。

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(写真:2012.09.05 大森にやってきた日のうさころ)

うさころは来た。しかしそもそも犬ってどうやって飼うんだ? 小さいころ南アフリカでシェパードを飼っていたが、それはもう遠い昔の話だ。

とにかく散歩に行く、ごはんあげる。コレ、ゼッタイ。それはなんとなくわかった。何とかかんとかうさころとの生活が始まった。

当時同居していたスズキくんもヤギのもぐさを飼いはじめた(どちらも室内で)ので、なんだか動物園のような社員寮になった。

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(写真:もぐさとうさころ)

仕事のある日は一緒に会社に出社するようになり、うさころは会社の敷地内で優雅に昼寝をする日々を過ごした。

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最初の居場所は会社のヤギ小屋の脇。倉庫にあった木の箱を横にして茅や稲藁を周りに敷いた。

ちょっとビビリで気が弱いうさころは、度々居場所を他の生き物に奪われた。

ある時はタヌキに。

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またある時はヤギに。

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2017年、会社の茅葺きの家・鄙舎(ひなや)の屋根の葺き替えが行われた。それに伴って元の屋根から下ろした古い茅で職人さんがうさころのための犬小屋を作ってくれた。

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茅葺き屋根の犬小屋なんて、願ってもなかなか手に入るものではない。思わぬ幸運にうさころもご満悦のようすだった。

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それからは夏も冬も出社中はこの小屋で過ごした。群言堂スタッフも休憩の度に入れ替わり立ち替わり遊んでくれたり、おやつをくれたり、ミニ散歩に連れて行ってくれたり、たくさん可愛がってくれた。

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三浦の仕事が終われば小屋まで迎えに行って一緒に家まで帰り、玄関の土間で過ごした。

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(写真:三浦家玄関のうさころ。障子を破るのもご愛嬌)

うさころはとにかくよく脱走した。

ハーネスをうまい具合にすり抜けて、何にも縛られない開放感を心ゆくまで味わった。

大工さん、貸し自転車屋さん、お寺、散髪屋、カルロスさん(日本人)・・・町のいろんな人がうさころを見つけるたびに捕まえてくれたり連絡をくれたりしてことなきを得た(犬が脱走してもちゃんと帰ってくる町っていい町だよね)。

脱走先でもらうおやつに味を占めて、脱走時の挨拶回りルーティンまでできた。特にカルロスさん宅でもらえる魚肉ソーセージには目がなく、散歩で家の前を通る時にも扉の前に張り付いて離れないほどだった。以来、魚肉ソーセージは大好物になった。

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(写真:自治会の集会に連れて行った先で外につないでいたがリードを噛みちぎって脱走、集会に乱入したところあえなく御用となったうさころ)

なぜか大雨とか大雪が降る日に限って脱走してずいぶん困らされた。特に雪は大好きだったが、どうやら肉球は寒さというものを知らないらしい。

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(写真:雪の日の散歩)

贅沢なことにベッカライ・コンディトライ・ヒダカさんのパンが好きで、よく切れ端をおやつにあげた。

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メディアに掲載されることも度々あった。ウェブメディア「ジモコロ」で石見銀山取材をしてくれた際にはコロつながりで応援もしていただいた。

町の人にもたくさん可愛がられ、大人から子どもまでみんなに覚えてもらい「うさころ」と名前で呼んでもらえた。

そして出張や帰省で家を離れる折には、安心して預けられる先がいくつもあった。スズキ家、女子寮、願龍寺、西性寺などなど、大森町内のいろんな家を渡り歩いては良くしていただいた。

ただ可愛がられただけではなく、逆に三浦のこの町での変化や成長、喜怒哀楽をずっと傍らで見守ってくれる存在でもあった。結婚して娘が生まれて家族が増えていく過程も全てその目で見て、ワイフやうめとも仲良くしてくれた。

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うさころはこの町に来て、良い環境で、良い関係性の中で生きられた。多くの人に愛されてかなり幸せな人生(犬生?)だったのではないかと思う。

最後は病気で辛かったと思うが、ようやく楽になって天国での大脱走を楽しんでいることだろう。おやつに困らないよう、ちゃんと大好物の魚肉ソーセージも一緒に火葬してもらったのできっと心配ない。

まだまだうさころの色々な思い出や面白いエピソードや写真も山ほどあるけれど、ここでは書ききれないしまとめられる自信もない。とにかくこれまでうさころがお世話になった皆さん、うさころを愛してくれた皆さんにご報告をと思い書きはじめたが、もたもたと写真を見返したり思い出を振り返ったりしているうちに一週間も経ってしまった。

最後に非常に簡単ではあるが、うさころに関わってくださった皆様に心からの感謝をお伝えしたい。本当にありがとうございました。

御礼

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