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「胸を張って走れ」第2話 (note創作大賞2024 お仕事小説部門)

第2話
 
 あれから1週間。真帆は週末に近くのショッピングセンターに行き、とりあえず見栄えの良いランニングウエア一式を調達した。「見栄えの良いランニングウエア」というのがどんな感じのものなのかさっぱり見当がつかなかったので、真帆はスマホで「ランニングウエア 女子 かっこいい」と検索し、世の中のランニング女子がどんな服を着て走っているのかをリサーチした。見様見真似でコーディネートしてみた。
「うん、これならおばちゃんには見えまい!」
 真帆は満足だった。
 グレーの生地にレモンイエローのラインが入ったパーカー、淡い空色のTシャツ、黒の短いジョギングパンツの下に黒のランニングパンツを履き、紺色のキャップを被る。せっかくなので靴も新調することにした。スポーツ用品店に行き、ランニングシューズとやらも買ってみた。普段履いている靴よりも底が厚い「GR1000」という名前のついたその靴を履けばどこまででも走れそうだ。玄関の姿見で自分を映してみると、外見はものすごく速く走れそうな人に見える。
 
 意気揚々と家を出発し、先週と同じコースを走る。前回学んだ教訓を生かして、新調したウエアと靴のおかげでどんなに気分が浮かれていてもスピードは押さえてゆっくりゆっくり走る。当たり前だがウエアを変えたからと言って急に走れるようになるものではない。ゆっくり走っても、やはりすぐに体が重くなり「歩きたい…」と思う。しかし、そこを耐えてゆっくりでも走り続けると、10分を越えた頃から走ることに体が馴染んできて、さっきほど歩きたいとは思わなくなってくる。
 
 公園まであと200メートルぐらいの道端に1台のトラックが止まっていた。
「あのクソおやじのトラックだ」
 真帆は気を引き締め、キャップのつばを下げてスピードを上げる。先週からかわれた時の気持ち悪さを思いだすと動悸がする。見ず知らずの無神経な中年男にここまで不愉快な気持ちにさせられたことにあらためて怒りが湧くと同時に、また何か言われたらどうしようという不安もある。
 
 そんな心の動揺はみじんも出さずにトラックの脇を通ると、例の中年男は何も言ってこなかった。たぶん先週の「走る母ちゃん」とは気づかなかったのだろう。
 それから週に2回ほど公園までのランニングをするのが真帆の習慣になり、何度か例のトラックが道端に停まっていたが、声をかけられることはなかった。
「見た目って大事なのね」
真帆はあらためてそう思った。あの男に「母ちゃん」とからかわれた時は、「私ももう中年なのね…」と自分が急に老け込んだような気持ちになったが、新しいウエアに身を包んだ自分をもう1度鏡で見ると、
「私も捨てたもんじゃないじゃない」と、自己肯定感が上がるのだった。
 
 1ヶ月もすると、あれほど息が上がっていたのがウソのように楽に走れるようになってきた。公園までの往復4キロ程度の道のりなら心地よく往復できる。12月の凛とした空気を吸い込みながら走ると体中に酸素が行き渡り、細胞がよみがえる気がした。
「1ヶ月前の自分とは別人のようだ」
 人間はいつからでも変われることを真帆は実感した。もちろん速度は早歩きに毛が生えた程度だが、苦行でしかなかったランニングをいつの間にか楽しめている自分がいる。
 走っていると、いつもの見慣れた景色が違って見えるのも不思議だ。ふだん近所のスーパーに行く途中の遊歩道も、走っているといろいろな所に目が行く。並木道の葉が色づいてきたなとか、遠くに見える山が今日はいつもよりくっきり見えるとか、雨が降りそうな雲が近づいているとか。それぞれの季節特有の空気の匂いが感じられるのも面白い。秋の金木犀の香り、冬の遠くで落ち葉を焼いているような匂い。ここ何年も季節の移り変わりなんて気にしたことがなかった。気づいたら春が終わり、夏が終わり、1年が終わっている。
 しかし何より真帆がランニングの効果に驚いたのは、気分がふさいだ時も走ると曇り空が晴れるように気持ちがスッキリすることだった。夫の言動にムカついた時、息子とケンカした時、むしゃくしゃした気持ちで走り始めるが、走っているうちにどうでもよくなる。そして30分も走ったあとは、怒りの塊のようなものは消滅し、青い空を見て「世界って素晴らしい!」とスキップをしたくなることすらある。 あまりに走る前と走ったあとの気分が違うので、「走っていると、脳から何か気分を上げるヤバい物質が出てるんじゃないのか」と真帆はいぶかしんだほどだ。
 
 走り始めて4カ月、3月になり、寒さが緩んできた。週に1~2回だけだが、真帆はランニングをずっと続けている。ランニングを始めた頃は公園までの往復4キロのコースを走るのにも45分ぐらいかかっていたが、今では30分ちょっとで走れる。もう途中で歩きたくなることもなくなった。
すっかり「いつものランニングコース」になった池の周りを走りながら、カモの親子を眺めていた真帆はふとある考えが頭に浮かんだ。
「フルマラソンの大会に出てみようかな」
 新しく浮かんだ考えに真帆は心が躍った。「フルマラソンを走るんだ、フルマラソンを走るんだ」と足も軽く弾む。
 
 その日の晩御飯の献立は鶏のから揚げにした。市販の唐揚げ粉は使わず、醤油とニンニクとショウガと酒に鶏肉を半日漬け込んでおいた。
 修一はあいかわらず黙々と食べている。いつもなら、
「おいしいとか何とか言えや」と心の中で毒づくところだが、今日は「フルマラソンに出る」という昼間の思いつきにまだ気分が高揚しているせいか腹も立たない。
 悠馬はひと口食べるなり、「なんか味薄っ!ママ、醤油ちょうだい」と言う。真帆は修一が健康診断で高血圧と言われてから、減塩を心がけているが、まだ減塩のさじ加減が分からない。
「パパ用に薄味にしたから」
 真帆はキッチンの調味料入れから持ってきた醤油を悠馬に渡しながら
「今日、走ってて急に思いついたんだけど、私、フルマラソンを走ろうと思って」
 と、なるべくさりげなく聞こえるように言った。
「フルマラソン?! なんでまた急に?」
3個目の唐揚げをほおばりながら修一は目をぱちくりした。
「ちょっと挑戦してみようと思って」
「ちょっとって距離じゃないだろ。42.195キロだろ?」
「そうだよ。最近、走れるようになってきたら出来る気がしちゃったんだよね」
「ムリムリ!ママは根性ないし。今だって週1回しか走ってないシューイチランナーじゃん。そういえば俺もシューイチだけど。ははは」
 笑いながら修一は味噌汁をすする。
「何、そのオヤジギャグ。ていうか、根性ないとか失礼だし。じゃあ、もし私がフルマラソン完走できたらどうする?」
「尊敬する」
「それだけ? じゃあさ、大会後の1週間、パパが家事を全部やるってのはどう?食事の支度も洗濯も掃除もゴミ出しも全部」
「いいよ。俺、ひとり暮らしが長かったから楽勝楽勝。ぜんぜんやってやるよ」
「やってやる」という表現と、主婦の家事をナメた態度にイラっとした。「夕飯何がいい?」と聞いても、いつも「何でもいい」としか言わない修一は、毎日、家族分の食事の献立を考えることがどんなに大変か分かってない。真帆がまとめたゴミをただ収集場に出すだけの修一は、分別してまとめるところからゴミ出しが始まるというのを分かってない。
 しかし、ケンカするのも面倒くさいのでそこは流した。一度、ぜんぶやってみるがいい。真帆は「見てろよ」と思いながら、山ほどある言いたいことを全部飲み込んで、「じゃあ決まりね!」と言った。
 隣で「醤油かけるとうめー!」と唐揚げをもりもり食べている悠馬に真帆は聞いてみる。
「悠馬はママがフルマラソン走ったらすごいって思う?」
「フルマラソンって?」
「42.195キロだよ。学校の校庭が1周200メートルだから、200周ぐらい」
「200周?!そりゃすごいよ!体育で3周走っただけで疲れたのに200周なんて死んじゃう」
「校庭200周」と言ってみると、すごい距離だということを実感する。そういえばランニングを始めてから今まで、まだ最長で4キロしか走ったことがない。フルマラソンはその10倍。冷静になると「本当にそんなこと出来るのか?」という不安が湧くが、真帆は「絶対にやってみせる!」と心に誓う。絶対に42.195キロを走って息子に「すごい!」と言ってもらう。夫に1週間、家事をやらせてみせる。フルマラソンを走りきれたら、透明人間のような今の自分から脱皮できる気がした。

(第3話へ続きます)

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