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芥川龍之介から、考えをめぐらせる

今回は、また私の、思い込み強め!な思いつきを書いていきます🙇

先日投稿した内容の続き、というか途中経過です。芥川『歯車』の中に「ぐるぐる」したものを感じる、と書きました。あの「ぐるぐる」感はどこから来るのか、これはわたしの長年の疑問であり、テーマです。

たとえば、
ゴッホの絵が分かりやすいと思うのですが、絵の中の、空や風、草木がうねるようなイメージ。渦巻くような描かれ方。思い返すと、私が最初に出会った「ぐるぐる」感は、ゴッホの絵でした。

坂口恭平さんの『土になる』を読んでいた時に、ベルクソン『創造的進化』から引用された、興味深い一節がありました。ご紹介します。

「生命一般は動きそのものである。生命の発露した個々の形態はこの動きをしぶしぶ受け取るにすぎず、絶えずそれに遅れている。動きは常に前進するのに個々の形態はその場で足踏みしていたがる。進化一般はできる限り直線的に進もうとし、各々の特殊な進化過程はいずれも円を描く。生物は一陣の風に巻き上げられたホコリからなる渦のようなもので、生命の大いなる息吹の中に浮かんだまま、ぐるぐると回転している。」

「円を描く」「渦」「回転」。
これは!と思いました。あの「ぐるぐる」感のイメージにつながるのではないか。
思わず、ページをめくる手が震えました。

早速図書館に行って探しました。ありました!『ベルグソン全集4 創造的進化』。原著は1907年刊行。私が見つけた本は1966年の訳本で、昔の学術本の、硬質な雰囲気をまとっていました。

内容が難しいので、一読した今の時点では、理解が全く追いつきません。しかしイメージだけはつかみました。印象に残った部分を引用します(引用が多くなってすみません)。

「生命を世界に投げ入れた最初の衝動このかたの生命全体は、物質の下降運動によって逆らわれながら、高まっていく上げ潮のようなものにみえてくるであろう。この潮の流れは、ほとんどその全表面にわたって、さまざまな高さのところで、物質によってその場で渦巻に変えられる。この流れは、そういう障害を身にひきずりながらも、ただ一つの点において、自由に通過する。流れの進行は、この障害のために鈍らされはするが、止められることはないであろう。この一点に人類がいる。そこにわれわれの特権的な状況がある。一方、この上げ潮がすなわち意識である。」

「生命」「上げ潮=意識」「渦巻」…。
 
普段、「生命」というものを、我々は特段意識しませんよね。まるで「生命」と我々の生活を隔てる一枚の薄い膜が存在するかのように。
しかし、その薄い膜の向こう側には、荒々しい「生命の運動」と「渦巻」が厳然と存在している。

そして、鋭敏で繊細な精神を持つ人が、ある一定の精神状態になったときに、その薄い膜の向こうの「渦巻」が見えてしまう。あるいはその「渦巻」の、ただ中にいる自分に気づくのか。

彼らが気づいた「渦巻」とは実は、「生命」と「意識」が持つ、荒々しい運動そのものなのだろうか…。

それが芥川やゴッホの作品に現れる、あの「ぐるぐる」感なのだろうか…。

このあたりまで考えて、わたしの頭の許容量を超えてしまいました😭。

しかし、時間をかけてベルクソンをもっと深く読み込んだら、何かが見えるかもしれない。そういう手応えをつかみました。

また今回、ゴッホの絵を数多く見るように意識していたのですが、あの「ぐるぐる」感が出ているものと、ほとんど出ていないものがあることに気づきました。さらに、「ぐるぐる」感の中にも、濃いものと淡いものがある…。この点も、もっと深く調べてみたくなりました。

今回は読書を通じて、

ゴッホ
芥川龍之介

坂口恭平さん

ベルクソン、哲学、自然科学

という流れが生まれています。すごくワクワクしている自分がいます。

拙い、思いつきの文章を最後まで読んでくださって、ありがとうございます🙇

『ベルグソン全集4 創造的進化』
松浪信三郎・高橋允昭 共訳
白水社
1966年3月25日

『土になる』
坂口恭平
文藝春秋
2021年9月14日

(この感想文は2022年8月9日に書いたものです)

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