内なる猫


外側は残っているが人格の芯が焼け落ちているということだ──中井久夫『世に棲む患者』「対話編 アルコール症」 

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 孤悲というおもいちがいに囚われて身うごきできぬ夏の疚しさ

 野に棲まう男ありしや炎天に燃ゆる月さえきょうはさみしい

 狩り人のゐないゆうぐれ犀星の『蜜のあわれ』をひらく寝台

 青穹を隠したりぬる午後の雨たがいちがいの貌とりかえる

 「神がまだゐない夜明けを歩きたい」二宮神社の境内に立つ

 黄金の道よこたわる定めという一語消し去る車を待てり

 きみどりの酸っぱい夏場すかんぽの茎剪るような少年時代   

 夏蟲の複眼きびしわれを射る羽なきものを蔑すものなり
 
 木漏れ日の光りをまえに殻を脱ぐ二人羽織のような蝉たち  

 もういっそ消えてしまうとおもうかな陽ので混じりの暑さのなかで

 夜行去る 耳を爆ぜては夏を呼ぶ いままさに読むものがたりたち

 相づちもあらぬゆきかたわが死をも二度めの事件と呼ぶ者欲す

 詩がいまだ麟麟として降るなかにありぬもかきとめぬわが水子よ眠れ

 わがうちの猫も去りたりアルコール漬け男の密かなる声

 つらつらとおもうに足の筋緊まるときのはざまに置き去るは闇

 なだらかな肩に寄り添う猫たちの眼球譚を求める暮らし

 哲学も眠る真昼よ変節を交えて語る過去の一切

 憶えきて忘れ去るもののなごり深く残る街路樹の伐採

 ものなべて草の青さに紛れつつ語れりきのうの林檎のごとく

 きりぎりと鋸を挽くひといずれかの未来になんの期待も持たず

 処女たちの眠りのなかをゆれてゐるめくらやまぎはかくれんぼする

 廃液の臭い充ちたり真夜中よ路傍の天使いま羽降ろす

 つちのえの男が匂うスーパーの閉店時間とうに過ぎたり

 ふみづきのあおい家路をゆくいつもならんでゐような窓が光るも

 望みなく駅にてC罫のノートに書きためしこと棄て去りぬ

 もうぐずぐずとしてゐるような子供のようにポケットがさみしい

 赦しなくてまだ立っている閂の錆の青ばむまでは

 心なくて食堂をでる ウェスターン・ドアがひらく頭蓋の夜

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