ペーパー・ナイフの冒険


   *


 春の昼下がりのことだ、通学路で突然にいわれたんだ、あのくそ学校のやつらから。理由なんかわからない。たぶん、おれそのもののが珍しかったんだろう。いつもおれは標的になった。
   おまえ、キッショいねん。
   なんでおまえみたいのがおるねん?
   はよぅ、死んだらどないや?
   殺してもらうとこ、教えたろか?
 幼稚園で一緒だった、佐々木と國本がいった。おれはやつらにペン軸をむけた。いつも漫画用に持ってたカブラペンだ。
   あぶないやろ!
   ええがかげんせぇんんと痛いめに遭うで!
  おお、遭わせろよ。──いますぐにな!
   なんでおれたちに逆らうねん?
  おれにおまえらが逆らうから。
   おまえ、親にいんのか?
  さあな、憶えがないな。
   いますぐに死ねや。
  裁判にかけろよ。
 おれはいった。そういっておれはじぶんを守った。そんな日が長くつづいた。だけど、ペーパー・ナイフ、それがおれの冒険だった。おれの中学校は評判があたりからわるく、くそだめを潜った、悪所みたいなものだった。はじめは悪口をいわれ、ぶ厚い唇を揶揄されただけだったが、やがて上級生に撲られ、不条理を学ぶ教科書さながらの体になり変わった。たしかにおれは善良ではない、しかし、ただかわりものだったはずだ。いったい、だれが悪の臥所に変えたのかはわからなかったし、いまでもわからない。数名のかわい子ちゃんを除いて、学校は最悪の檻だった。逃げられない檻だ。だって父親の強制がどこまでもあったからだ。
 夏の課外旅行をきっかけにおれは河内という痘痕づらやら、片山という双子のばかものにしつこく狙われるようになった。べつにおれがなにか仕掛けたわけじゃないが、なにか隙があるたびにおれはやつらのおもちゃにされた。河内はしつこかった。片山ひとりには図書室でもろに撲られもした。まるで力石に初の一撃を喰らったジョーのような気分だった。そしてやつらのボスだった山田創には便所に連れ込まれて、2発も喰らい、その屈辱でおれは教室で泣いてしまった。おなじ小学校だった槇田太一郎や福島亜希が、無表情で眺めてた。くそったれめが。ひとの痛みのわからないやつはどこにでもいるんだ。それでもおれは黙ってやつらの餌食になった。それしか生きる道がないからだ。レディオヘッドの“just”を聴きながら、その傷を癒やした。
 でも、おれの傷はたやすくは癒えなかった。父も母も学校という場所を盲信するだけの阿呆で、そいつを崇拝するだけの能力だけしかない。学校なんざケツでも喰らえだ。おれはやつらがきらいだ。苦しみを与えるだけの存在に奉仕することはできない。くそったれだ、すべての同級生ども。おれを救わなかった教師たちもけつ喰らえだ。秋のあいだずっと、おれはたったひとりの復讐をおもって、爆弾づくりを夢想してた。花火の火薬をつかうとか、黒色火薬を自作するとか、ナイフを買うだとか、そんなおもいだけがおれを生に駆り立ててた。
 どうしてひとはひとを殺すのだろう。毒ワイン事件や、鉄バット事件を読みながら、なぜひとりのひとが孤立して殺人事件に散ってしまうのかを考えた。なぜこの人生は生きづらいのか、なぜおれには友人がひとりもいないのかをずっと考えた。
 しばらくして地域清掃をやらされたとき、おれは友人とはいいがたい堂ノ元と一緒にされた。屈辱だった。植村も松本も友人同士と一緒だった。だのにおれはおれのようにまぬけな堂ノ元とともに長くて、勾配のきつい坂をいったり来たりさせられたんだ。こんなことってないよな、だけどあったんだ。そして松本とといういじめっこが、「おれんちにゲームがある」といいだした。もちろん、おれだけが誘われなかった。死にやがれ。名塩クリーンハイツの大馬鹿者め。
 その冬、おれは山田たちに包囲されてしまった。教室のみんながおれを観察した。「謝れよ」とややつらはいった。いつもはきれいごとを嘔いてるやからだって、なにもいわなかった。まるでなにごとも存在しないようにだ。おれはただただ悪党のまえに立たされ、怯えてた。山田がいった、「赦して欲しかったら頭を下げろ」と。長い時間がたったギャラリーは平然としてた。あの、かわいいとおもってた和田真帆ですらも。そして捕食される小動物を見るようにおれを見る。福島亜希だけが、「先生を呼んで」と声をあげる。それがおれには耐えがたかった。やがて暗くなる、終業後の教室。おれは「謝らない」といった。はじめはするといった、「土下座もしない」といった。やがて担任が来て、山田は悔しそうにおれの足を蹴った。
 なにもかもが終わって、一切助けなかった植村におれはいった、「やつらに復讐したい」って。やつは顔色も変えず、ペーパー・ナイフを差しだした。──「これ、つかえ」、おれは徹のいったようにそのナイフを持った。やがて就業だ。おれは、おれをやつらの眼前にだした、谷というチビの生徒を狙って、その足を刺した。やつはヤンキーどもにいわれておれを誘いだしただけの役目だった。まるで感触がない、2度刺した。確かな痛みをやつは声にださなかった。ただ「痛い」とだけいった。おれは山田も刺すつもりだったけど、動揺してしまい、そのまま教師につれていかれてしまった。隣室じゃあ、血まみれになった谷が苦痛に呻いてた。担任の女教師である三宅は無表情だった。瀬川という体育教師は、「こんなやつがやったのか」と意外そうに漏らした。だれだって怒ればはなにをするのかがわかってないんだ。おれは隔離室にやられ、尋問が始まった。やがて母親が来た。「わたしのせいで」と泣きだした。母はまるで関係がない。むしろ父のほうに関係があったのに。それでも時間が経てば、みんなが冷静だった。母も教師も同級生もがだ。
 みじかい説教のあと、家に帰された。父に報告した。やつは平然としてた。「刺した」のをなんともおもってない。そのままで眠り、おれには一瞥もない。やがて日が過ぎて、謹慎が終わった。同級生たちはおれを嗤った。そしてほかのばかどもや、知恵遅れみたいにおれを接した。なにもかもが漫画みたいに過ぎ去り、徹でさえなにもいわなくなったころ、やつは「ナイフのことはいわいでくれ」といいすてて体育館へと去ってった。やつは友達なんかじゃなかった。ただの通りすがりの幼なじみだ。そして上級校を目指しておれの姉や、吹奏楽部の寺尾麗奈や、吉村大介たちと一緒につるみ、おれを嘲笑い、そして山田だけが怨めしく眼をあけて、おれを鞄で叩いた。やつはなにもいわない。おれもなにもいわない。なにかいいたかったが、できない。そのときを境にして、だれもおれに攻撃することもなくなった。水島や今野とかいうヤンキーどもも去ってった。
 おれは気に喰わなかった。もっと口実が欲しかった。ひとを傷つけるための口実が欲しくてならなかった。でも、もはやなかった。なにもかも終わったころだった。おれと谷は一緒にいた。おれはカッターの刃をがちがちいわせながらやつを怯えさせてた。
   もう刺すなよ。
   もうやめてくれよ。
  おお、そうだな。
   忘れるなよ。
  もちろんだよ。
   じゃあな。
  ああ、じゃあな。
 弱々しい声でいった。それからやつは転校した。そのときわかったんだけど、谷は孤児院の子で、むこうの計らいでいなくなったということだった。やつの友人だった長岡はしばらくおれを罵って過ごした。授業の途中やあいまにおれをキショイと大声をだすんだ。それがおれにはつらかった。
 おれにいえることは山口中学校はばかの砦だってことだ。もうずっとまえだった、幾年もしてから、おれはやつらに最初の詩集を送った。それはそのままで帰って来た。一筆もなくだ。電話をしたら、教師がでた。ずいぶんと慇懃な具合で。教師のなかに不賛成なやつがいたといった。礼を欠いた口で。おれは諦めて話を終えた。もし、おれのようなやつがいて、おれの詩を読んでくれたらとおもってた。それは叶わなかった。おれは涙に濡れた袖を払い、三宮の街をただただ徘徊したっけ。これがペーパー・ナイフの冒険ってやつだ。植村はいまも平気で暮らしてるし、あのナイフはたぶん、あいつの手許にいまもあるんだろう。やつらが咎を憶えることなんかないんだよ。


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