豚どもに火を放て──短歌について


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 20年ほどまえに「新アララギ」の掲示板で短歌を投稿していた。たびたび撰者のほうから、かれが改作・添削した歌を押しつけられたことがある。最初のほうはおれもじぶんなりの改稿をだしていたのだが、あるとき、とある人物から「おれがもう添削したんだから、それを受け入れろ」という趣旨のありがたきことばを頂いた。そもそも発生源のちがうことばをなぜじぶんのことばとして受け入れなければならないのか、おれは戸惑った。あまつさえ、かれはじぶんの改作した歌を褒め称える寸評とともに優秀作品にまで撰んでしまった。開いた口がふさがらなかった。こうした恥を知らない所業をなぜやるのかと唖然とした。
 最近も詩の投稿サイトで「おれならこうする」を披露されて閉口した。そして身勝手な改作と来た。他人の尻馬に乗ってじぶんを披露するくらいなら、創作をやめて文章添削講座でもやるべきだとおれはおもう。作家の魂しいの一部を引き裂いておいて、「これでどうですか?」、「これに決めろ」なんてグロテクスな文化だ。なにもいまに始まった話じゃない。『第二藝術論』の時代からずっと俎上にある問題である。ずっとおれ自身は「おれならこうする」をじぶんの作品に於いて示して来たつもりだ。書き手なら、そうするべきだ。添削といえば俵万智だってひどいもんだ、『短歌のレシピ』でおれの作品を改作しているが、〈中也ごとマントかけたる冬をいま鏡のむこうに見て風車〉を〈中也ごとマントかけたる冬をいま鏡のむこうにわれは見ており〉などと書き換えて悦に入っている。莫迦莫迦しい。そもそもが体言止めを使いたくてつくった歌から、それを引いたら無意味である。そしてかの女のような歌人たちは添削・改作で銭を稼いでいるのである。他人の改作を赦すようでは創作とはいえない。習い事である。こういったことを認めている歌壇がじずれ時代によって裁かれるのを期待している。もうやめようじゃないか、指導とか、手解きとかいって、じぶんたちの傲慢さをかばい、他人の想像力を潰すのは。字余り・破調の短歌にしたってそうだ、それを「天才だから赦される」と特権化して、技法のひとつを奪うなんて莫迦のすることだ。少なくても「新アララギ」のひとたちは、いい加減に「表現とは自己という磁場からの発生物」であるり、「自己決定」そのものであることを学ぶ必要があるんじゃないか。それが他者によって決定づけられるなにかではないことを理解するべきだろう。他人の指導という名の冒涜的行為を赦す以上、定型詩には自律性がないとしかいえないし、それを文学とか詩であるというのはできない。ただの作文だ。そして自律性のない作文の生き着くところはプロパガンダである。われわれを検閲しようとする主体についてもっと考え、火をつける必要がある。
 
 ところで身内話もなんだが、次の歌誌『帆(han)』から、きのゆきこまち氏には降りてもらおうとおもっている。かの女とは意見も嗜好も合わない。そもそも、かの女は主宰であるわたしの作品に無理解であるし、歌誌の方向性にもそうだ、ほかの寄稿者たちにも同様である。このまま参加してもらっても、かの女のためによくない。べつにイエスマンで固めたいとか、ワンマンでやりたいとか、そういうことではない。たとえば以前の放送で、おれがかの女を尊重しようと「ちがう考えも内包したい」といったのにそれをかの女は否定してしまった。そのときは笑って「京都人とは合わない」と済ましたが、そこまでいくと深刻で、もはや修復困難なような気がしている。そもそもきのゆき氏は制作補助の三浦氏が誘った人物である。おれは三浦氏を立てるつもりで起用したのであって、かの女の作品に惹かれたわけじゃない。しかし三浦氏や、かの女がわるいということではまったくない。人間として好いということと、作家として好いかはべつである。少なくともおれだったら、じぶんの嗜好とは合わない場所に参加はしない。好きになれない相手に作品を提供したいとはおもわない。
 
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